戦国時代の合戦の始まりと終わり

前回のコラムでは、戦国時代の戦の準備に関して紹介して行きました。

実際の戦の戦い方は、弓や鉄砲の遠距離攻撃がメインでその次に槍等の長物が主要武器になっていた事を以前のコラムで紹介いたしましたので、今回は陣形や配置、情報伝達、戦に巻き込まれた人々など、合戦中どのような事が起こっていたか、どのような攻め方があったのかを中心に見ていきたいと思います。

目次

1.合戦の場所
2.合戦の布陣八陣
3.情報の伝達手段
4.合戦と農民

5.戦での戦術
5-1.誘降戦略
5-2.水攻め
5-3.兵糧攻め
5-4.もぐら攻め
5-5.籠城戦

6.戦の終わり方

まとめ

1.合戦の場所

陣を張り終え、合戦が始まる時は自軍と敵軍がぶつかった時に火蓋が落とされます。これを「遭遇戦」といいます。

この遭遇戦は大勢の兵が衝突するため、大体野原や河原で行う事が多かったようです。そのため「野戦」と呼ばれ、合戦や戦の事を「野戦」という事もあるそうです。

そこで有名な戦の名前を見てみましょう。「長篠・設楽ヶ原の戦い」「関ヶ原の戦い」など「原」が付く場合や「姉川の戦い」「川中島の戦い」など「川」が付く戦いが多い事からもその事実がうかがえます。河原で戦いが起こる事が多かった理由は大勢の兵が戦う事以外にも領地の境目が川だった場合が多い事もあります。

土地や地形を利用した場合以外を除いて、基本的には兵の数が勝敗にものをいったようです。

2.合戦の布陣八陣

合戦が始まるとただの物量戦を行っていた訳ではなく、勝つために作戦を立て合戦を行っていました。

その基本的なものとされていたのが「八陣」と呼ばれているものです。

「八陣」は平安時代に考案されたもので[魚鱗(ぎょりん)][鶴翼(かくよく)][雁行(がんこう)][長蛇(ちょうだ)][偃月(えんげつ)][鋒矢(ほうし)][方円(ほうえん)][衝軛(こうやく)]の八つの陣で構成されています。この八つの陣にはメリット・デメリットがあり、戦況によって次々と別の陣へと変わっていました

戦場の状況や相手の状況をみて陣を変えて戦っていた為、正確で素早い伝令が戦の要になっていました。しかし、当時の兵士の大半は農民だったので、思い通りに兵を動かすのは至難の業だったそうです。また状況をみて采配をする能力が総大将に求められていました。

3.情報の伝達手段

先程も紹介した通り情報の伝達が、常に戦況が変化していた戦況を変化させていました。

その為、情報伝達専門の使番という役職がいましたが、伝達中に命を落とすこともあったので確実な手段ではありませんでした。

そこで重宝された手段が「鳴り物」でした。合戦と言われてイメージするものに法螺貝があるかと思いますが、そのイメージは間違えでは無かったのです。

よく使われたものが「法螺貝」「太鼓」「鐘」でした。

長さや回数でどのように動くかが決められており、戦場での情報伝達に関して「鳴り物」は大活躍をしていたそうです。

また莫大な人数が参加している合戦では敵味方の判別が難しことや、味方同士の同士討ちを防ぐために「合言葉」「衣装の統一」が存在していました。

いかに相手に悟られないように情報の伝達するかが重要視されていたようですね。

4.合戦と農民

合戦が始まるとそこに住んでいた農民はどうなるのだろうという疑問が生まれてくるかと思います。

農民も戦に参加する事もありますが、農民全員が参加することはありません。そこで残された農民達は命を守るために山の中に隠れていました。隠れる前に所持している武器や防具が兵士に盗まれる事が多かったので土の中に埋めてから隠れていたそうです。

七人の侍でも農民が大量の武器防具を隠し持っている描写がありましたね。

もちろん戦場になった農地は敵軍の兵糧攻めの時に農作物を全部刈り取られたり、自軍の兵糧の為に刈り取られたりなど、荒らされてしまいます。

その為、合戦が終わった後には死傷者から金目の物を盗んだり、落ち武者狩りをしたりし、生計を立てていたそうです。

4.戦での戦術

戦では陣形以外にも様々な作戦がありました。

やはり、戦は最終的に行う手段の為少なからず被害が発生してしまいます。その為に様々な戦術が生まれました。ここでは有名な戦術をいくつか紹介して行きたいと思います。

5-1.誘降戦略

やはり戦は避けて通りたい為、戦わずして勝つ。つまり合戦を行う前に相手を屈服させることは出来ないかと、頭脳戦も行われていました。この頭脳戦を「誘降戦略(ゆうこうせんりゃく)」と言います。

様々な条件を提示し配下に降るよう説得したり、その説得に応じない場合は周りの土地を落とし孤立させ降伏を勧誘したり、血縁関係を結んだりと様々な方法があったようです。

この誘降戦略を得意としていた武将が「豊臣秀吉」や「徳川家康」でした。

5-2.水攻め

水攻めという戦術はご存知の方は多いかと思います。

相手の城を力技で落とす場合は、勝ったとしても自軍の損害がかなり大きなものになってしまう事が多かったようです。

そこで兵力を損なわない戦略が考案されるようになり、生まれたのが「水攻め」です。

水責めは城の周りを土手で固め、そばの海や川から水を流し込み城を水で沈めてしまう戦術です。ただどの城にも使えた戦術では無く、平城で側に海や川、湿地などが無ければ出来ない戦術でした。

この戦術を得意としていたのが豊臣秀吉でした。

有名なのが「備中高松城攻め」です。ここではわずか19日で幅20メートル高さ7メートル長さ2.8キロの土手を作りました。その時には1万人以上の人員が割かれ、水攻めは成功に終わりました。

5-3.兵糧攻め

兵糧攻めは文字通り、相手城内への食料の供給を断ち、城内の食料が無くなるのを待つ戦術です。

水責めと同じように自軍の損害を防ぐことが出来、いい戦術かと思われますが供給を断つためには包囲網を作る必要があり、一年以上準備に時間がかかる事があった為、兵糧攻めをする側にも根気が必要な戦術でした。

しかしこの戦術は平安時代から存在しており、いつの時代も生きていくうえで必要な食料を断つというのは有効な戦術なのかもしれませんね。

5-4.もぐら攻め

戦術としては一風変わった作戦が「もぐら攻め」です。

もぐら攻めとは相手の城内へと続くトンネルを鉱山で採掘を専門としている金堀衆と言われる集団に掘らせるという戦術です。

そのトンネルから城内へ兵士を送り込んだり、城を囲む堀の水を抜いたり、城内へ侵入し井戸に毒を入れたりなど戦力を低下させる戦術でした。

この戦術を得意としていた武将が武田信玄でした。武田信玄の領地は農業に適さない土地だった為、河川の整備や鉱山の開発に力を入れていたため、金堀衆の技術が発達していた為、もぐら攻めを得意としていたそうです。

5-5.籠城戦

籠城戦は文字通り城に籠り、相手が諦め撤退するのを待ちひたすら防戦をし、勝利を収める戦術です。

しかし籠城戦をする場合勝つ方法が、相手が諦めて撤退するか、援軍が到着し相手を殲滅するしかありませんでした。

戦国時代、兵農分離が行われるまでは農民が合戦に参加をしていた為、農業の繁忙期が来れば相手は撤退するしか無いため、それまで持ちこたえるか、援軍が到着するまで城を守り切ればよかったのです。

その為お城には籠城戦に耐えうるよう食料の貯蓄や井戸を沢山引いており管理を徹底していたそうで。

6.合戦の終わり方

合戦にも当然終わりはありました。大きく分けて終わり方は3種類ありました。

1総大将を捕らえる。または討つ
2城を開城させる
3講和を結ぶ

この3種類が主な終わり方でした。

1に関しては文字通りですが、2に関しては兵糧攻めや水攻め等で追い詰められた際に城主が降伏した場合に起こりました。

この時によく見られたのが、城主の命と引き換えに自分の城兵の命を助けてもらうというケースでした。

3に関しては、このまま戦いを続けても勝ち目がない場合にこの選択が選ばれました。この場合、負けた側も勝った側に無条件で降伏するのではなく、よりいい条件を結べるよう最後の頭脳戦をしたそうです。

また敵に降伏する場合は恭順を示す為に剃髪をするのが作法だったそうです。

こうして一つの戦が終わったら、勝った軍は戦場の遺体処理をし、手厚く埋葬したそうです。

自分の農地で祟り等が起こっては山中に隠れた農民が戻ってこないことを恐れた為、戦後の処理は丁寧に行ったそうです。

まとめ

今回は前回までの合戦関連の記事から、実際に合戦が始まってから終わるまでを取り上げてみました。

合戦と聞くと大勢の兵が戦うイメージが強く、どのような事が起こっているのかは中々知る機会が少なかったかと思われます。

ただ単に兵同士がぶつかりあうのではなく、土地を生かしたり、自国の長けている技術を使う攻め方など様々な戦略があり、また歩兵戦では陣形を組み相手と戦うなど当然かもしれませんが調べてみると新しい発見が沢山ありました。

実際の知識を持って殺陣をしてみると、イメージが湧き易く新しい発見があるかもしれませんね。

次回は日本の武器に関して再度詳しく見ていきたいと思います。