武士道と葉隠

武士道という言葉を知っている人は多いと思われますが、実際にどのような事が武士道なのか、武士道はなんなのかをご存知のカは少ないかと思われます。

今回は数回に渡り、武士道についてどのようなものなのか、江戸時代に生きた侍達は何を大切にしていたかを見ていきたいと思います。

武士道を知るためには、武士だった人に聞くのが一番だと思うので「武士道」に関する記述のある書物を参考にみなさんと武士道について考えてみたいと思います。

今回は座学的な内容がメインで武士道に関して記されている書物とその作者について見ていきたいと思います。

目次

1-1.武士道とは

2-1.武士道について書かれている書物

3-1.葉隠
3-2.葉隠の内容
3-3.葉隠の作者について
3-3-1.田代陣基と山本常朝

4-1.武士道
4-2.武士道の制作意図
4-3.武士道の作者新渡戸稲造

まとめ

1-1.武士道とは

武士道と言われてイメージするものはどのような事でしょうか。侍・武士と言えば「切腹」や「丁髷」(ちょんまげ)などの単語が外国人からも出てくるように、これらも武士道に由来しているものなのでしょうか。

そもそも「武士道」とは江戸時代での身分制度で支配階級の「武士」が日々の文武の鍛錬と行動の責任をとることが定められていました。

支配階級である責任を果たす為に自分たちの行動や倫理観等が各武士の家系ごとや侍一人ひとりに自分で定めた掟のようなものがありました。この武士達の倫理観を総じて「武士道」と呼びます。

その倫理観や責任を果たす為に切腹が存在し、侍はいつ死んでもおかしくない職業だったので、毎日髷を結い、いつ自分が死んでもいいように常に身なりを整えていたそうです。

2-1.武士道について書かれている書物

そもそも「武士道」という言葉が世に浸透生まれたのは明治時代以降でした。

武士道という言葉が国内外問わず浸透したのは、みなさんご存知の新渡戸稲造の「武士道」という本を発刊してからでした。

武士道という言葉の出所については諸説ありますが、「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」の冒頭で有名な書物「葉隠」が文章で初めての登場でした

葉隠が発行されてから100年後に山岡鉄舟が著した本に「武士道」があります。

この「武士道」内に「武士道という認識は中世よりあったが、自分が名付けるまでは武士道とは呼ばれていなかった」と記されています。

このようにいくつかの書物で「武士道」が登場しています。この中でも有名な「葉隠」「武士道」の内容をメインにみていきたいと思います。

3-1.葉隠

「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。」という一文で始まる「葉隠」ですが、どのような書物なのでしょうか。

「葉隠」は佐賀の鍋島藩士・山本常朝が筆者の田代陣基(つらもと)に武士の心得を説いた内容を記している本です。

山本常朝の体験談をまとめた内容なので今の私達が読むと、江戸時代の日記を読んでいるような気持になれ、現代語訳されたものでしたらとても読みやすい文章となっています。

葉隠は全11巻で構成されており、山本常朝が体験した事を中心に武士とはどのような生き物だったのかを知る事が出来ます。

ちなみに冒頭の後半の文章の意味ですが、「武士道とは、死ぬ事だと知った。生きるか死ぬか、二つに一つのときは、死ねばよい」と大変インパクトのある一文となっています。

3-2.葉隠の内容

新渡戸稲造の「武士道」とは少々内容が異なり、当時の武士として生きた山本常朝が考える武士としての心構えを説いた内容です。ですので、武士道とはこういうものですよというような明確な定義を説いた本ではなく、山本常朝の生涯で体験した事や考え方が書かれています。内容は今でいう所のブログに近いものがあります。

しかし、内容が様々なものを批判しているため、何度も禁書扱いされていた本でした。

政治批判や宗教批判なども含んでいる為、山本常朝は筆者の田代陣基にこの本11巻すべては、いずれ焼き捨てなくてはいけない。人が見たら、腹を立て、遺恨に思うに違い無い。と発言しており。かなり尖った内容になっております。

実際に田代陣基の書いた原本は存在せず、いくつかの写本を元にして構築されたものが現在の私達が読むことのできる葉隠となっております。

3-3.葉隠の作者について

この葉隠ですが、普通の本とは少々異なりインタビュー内容をまとめた本になっております。インタビューを開始してから、世に出回るまでなんと7年以上の歳月がかかっており、その間に筆者の田代陣基はインタビュー内容のウラをとっていたり、他の人から話を聞いたりしており、かなり力の入った本となっております。

禁書扱いもされていた「葉隠」ですが、葉隠の口述者山本常朝と筆者の田代陣基はどのような人物だったのでしょうか。

3-3-1.山本常朝と田代陣基

葉隠の口述者、筆者共に佐賀の鍋島藩に所属していた侍です。

山元常朝は1659年に鍋島藩士の山本神右衛門重澄(やまもとじんえもんしげずみ)の子として生まれました。1659年頃だと徳川家4代目になり、大阪冬の陣・夏の陣、島原の乱等が終わり江戸時代も安定してきたころでした。

常朝はかなりの変わり者で10代の頃、利口そうな顔をしていると言われ、殿様が利口ぶった者が嫌いだと知り、毎晩鏡の前で顔付きを変えようとし実際にひ弱そうな顔つきに変えた逸話などが残っています。

自分の仕えていた大名が亡くなった時に切腹をしようとしたが、追腹禁止があったので代わりに出家をし、住職になりました。

住職として隠居している時に田代陣基が訪ね、インタビューを行い葉隠が作られました。

筆者田代陣基は常朝にインタビューをする事を思い立ったら、山本常朝の草庵の近くに住み、インタビューの内容や構成を考え、他の本を参考にしたり、インタビュー内容のウラどりをしたそうです。

4-1.武士道

「葉隠」よりも新渡戸稲造の「武士道」の方がなじみがあるかと思いますが、こちらも実際に読んだことのある方はあまりいないかと思われます。

こちらは江戸時代が終わり、明治時代に入った時に発行された本になります。

この「武士道」は全編英語でかかれており、外国人に向けて発行されていました。海外で

ジョン・F・ケネディ大統領やセオドア・ルーズベルトなど多くの著名人に読まれ、発売から8年後に日本語訳が出版された本になります。

どのような事が書かれていたかをみていきたいと思います。

4-2.武士道の制作意図

長い間鎖国をしていた日本が海外の文化を取り入れていく中で、新渡戸稲造は外国の教育関係者との間で、日本国内での宗教教育の弱さを指摘され続けた結果、日本国内の文化を知ってもらおうとし武士に焦点を当て「Bushido:The of Japan」を出版しました。

その後先程説明した通り、日本国内でも「武士道」と題名を改め発売されました。

武士道の内容は「武士」の事を知ってもらうというよりは、長い間ほかの国と交流が無かった為、日本独自の考え方や国民性を知ってもらうために「武士道」の考え方について書かれた本になります。

4-3.武士道の作者新渡戸稲造

新渡戸稲造は国際連盟の事務次長になったり、5千円札になったりと誰もが知っている人物だとは思いますが、武士道を出版するまではどのような人生を送っていたのでしょうか。

新渡戸稲造は1862年に盛岡藩の新渡戸十次郎の三男として生まれました。

幕末に武士の家系で生まれその後上京し、学問の道へと進みます。1884年には渡米をし

1891年にはアメリカ人のメリー・エルキントンと結婚をし、日本へ帰国します。

武士の家系に生まれ、外国での生活もあり、外国人の奥さんを貰った新渡戸稲造だからこそ、他の国に比べ、文化を理解しがたい日本の考え方を広め、認めてもらう事が出来たのではないでしょうか。

まとめ

今回は武士道の内容よりも、武士道を学ぶにあたって次回から参照していく書物の紹介をしていきました。

葉隠の一文を紹介しましたが、これだけだと武士が死に急いでるように聞こえてしまうかもしれませんが、実際はそうではなく内容を読んでみるとしっかりとした心構えがあった上で死に対して恐怖を感じないようにしているのです。

また外国人に日本の存在を広めた「武士道」では、道徳的内容を学校で学ぶ外国と学校以外の所で学ぶ日本の文化の違いを説明しています。

次回からは葉隠・武士道の内容を詳しく紹介しながら、武士道とはどのような考え方だったのかをみていきたいと思っております。