日本独自の画壇文化について

前回のコラムでは浮世絵に関しての内容を見ていきました。浮世絵は市民の間で流行したものでした。日本の絵と言われれば浮世絵が想像されると思いますが、市民の間で流行したもの以外でも神社やお寺の天井画や障壁画、お城の襖絵など浮世絵以外の絵も多数ありました。

こちらの絵は、朝廷や幕府の依頼によって仕事をする専門画家集団によって制作されていました。

今回はこの専門画家集団に注目してみたいと思います。

目次

1.画壇の中心 狩野派

2.絵師と身分 絵所預と御用絵師

3.狩野派の歴史

3-1.狩野派の起源

3-2.狩野派の発展とライバル

3-3.戦国時代を生き残った三面作戦

3-4.狩野派の衰退

4.狩野派の作品と人物

4-1.狩野永徳の作品と人物

4-2.狩野光信の作品と人物

4-3.狩野探幽の作品と人物

まとめ

 1.画壇の中心 狩野派

浮世絵で有名な歌川広重、喜多川歌麿、東洲斎写楽など、一度は聞いた事があると思いますが「狩野派」という名前を聞いたことはありますでしょうか。

この狩野派は幕府や朝廷の依頼によって絵を描く、政府御用達の絵師集団のようなものでした。

狩野派の中でも有名な絵師は「狩野永徳」や「狩野探幽」が有名で唐獅子の絵など、一度は見た事があるかもしれません。色々な城や寺や神社に絵を描いていき、様々な作品を残していますが、戦争や震災によって残されている作品はとても少なくなっています。

狩野派の絵なんて見た事が無いと思う人が多いと思いますが、教科書に載っている織田信長、豊臣秀吉の肖像画も狩野派の絵師達が書いているのです。

この狩野派は世界からも注目されている絵師集団で、400年間に渡って活動をし、室町幕府から江戸幕府が滅亡するまで、幕府と密接に活動していたのはどこを見ても類を見ないそうです。

2.絵師と身分 絵所預と御用絵師

室町時代狩野派がお仕事をしていたのは朝廷で「絵所預(えどころあずかり)」という役職でした。この絵所預は朝廷や将軍に仕えていた絵師が所属する部署で、お城や寺、縁起絵巻などに絵を描いていました。

江戸時代に入ると「狩野派」は「御用絵師」と呼ばれるようになり、御用絵師の中でも一番格式が高い役職は「奥絵師」と呼ばれ、世襲されていました。

この奥絵師の身分はとても高く、御目見え以上旗本と同格の待遇を受けており、名字帯刀も許されていました。

奥絵師の助手として手伝いをする「表絵師」という役職もあり、こちらの表絵師は御目見え以下の御家人と同格の待遇でした。

このように政府や朝廷の下で働いていた「職業絵師」は武士と同等の身分をもっていました。

3.狩野派の歴史

3-1.狩野派の起源

狩野派のはじまりは室町時代まで遡ります。

当時御用絵師として活動をしていた狩野正信が狩野派の祖とされています。

室町時代、絵所預は「土佐派」と呼ばれる画家集団が世襲していました。その土佐派の主要人物が戦死した事により絵所預の職が土佐派から離れていく事になります。

その隙を見逃さなかった狩野派の祖「狩野正信」は様々な仕事を行い、当時土佐派の「土佐光信」との両者が画壇の2大勢力となりました。

3-2.狩野派の発展とライバル 長谷川等伯

その後、狩野派は次々に仕事をこなし2代目当主「狩野元信」は「法眼(ほうげん)」と呼ばれる地位を与えられ狩野派は土佐派を凌駕する勢いで様々な仕事をしていきました。

さらにそこから発展させた「狩野永徳」は依頼主の要求によって描く絵を変えていき絶大な人気を得ました。

織田信長、豊臣秀吉などの天下人に仕え順調に発展していきましたが、狩野永徳が亡くなると狩野派の勢いが衰え、狩野派唯一のライバル「長谷川派」の「長谷川等伯」に仕事を奪われてしまいます。

長谷川派の後ろ盾には「千利休」がついており、そのこともあり狩野派の仕事は長谷川派にとられてしまいました。しかし「千利休」が切腹したことにより仕事は再び狩野派にもどってくるようになります。

3-3.戦国時代を生き残った三面作戦

室町時代が終わると戦国時代に入ります。また御用絵師は各将軍に仕えているので、だれが天下を治めるかを瞬時に判断し、行動しなければ自分たちの仕事・命の保証はありませんでした。

そこで狩野派は誰が天下をとっても生き残る事が出来る作戦「三面作戦」を実行したのです。

三面作戦とは当時天下を治めそうだった「徳川家」「豊臣家」「朝廷」の3家それぞれに狩野派の絵師が御用絵師として奉仕し、どの家が天下を統一しても狩野家が滅び、仕事がなくなる恐れが無くなるようにした作戦でした。

この作戦はもちろんリスクもありました。結果としては徳川家が天下を統一するのですが、その時に豊臣家側に仕えていた狩野派の絵師は豊臣家の家臣として殺されてしまう可能性もあったのです。

しかし、狩野派が続くことを大事とした狩野孝信はこの「三面作戦」を考案し、実行し狩野家の安定と発展に努めました。

3-4.狩野派の衰退

江戸時代に入り狩野派はますます発展を遂げ日本一の画家集団となっていきました。

画家集団としてのシステムも完成されており、ピラミッド型の組織を形成していました。

また狩野派の特徴としては「新規なものより伝統的なものを良しとする」点がありました。その為、それぞれの絵師の個性よりも同じ絵を描ける事が重要視されていました。お城の襖絵や屏風絵様々な仕事をこなすには多くの弟子一門を引き連れて取り掛からなければならない為、個性よりも同じ絵が描ける事の方が大切にされていたようです。

狩野派の絵画は個性や新味に貧しいという評価も多いそうです。

4.狩野派の作品と人物

ここまで狩野派について見ていきましたが、実際にどのような作品があったのか、どのような人物がいたのかを見ていきたいと思います。

4-1.狩野永徳の作品と人物

狩野永徳(1543年~1590年)は織田信長や豊臣秀吉に仕えた狩野派の絵師で、狩野派の拡大に大きく貢献した絵師でした。

この狩野永徳は10歳の頃に当時の将軍足利義輝に拝謁したことが資料に残っている事から10歳の時点で相当な実力の持ち主だった事が分かります。

有名な作品には「洛中洛外図」や唐獅子図屏風などがあります。

4-2.狩野光信の作品と人物

狩野光信(1565年~1608年)は狩野永徳の長男で父の永徳と同じく織田信長、豊臣秀吉に仕えた絵師でした。

父親の永徳は戦国時代の世を表すように大きく壮大な絵を描いていたのですが、光信は父親とは対照的に穏やかで繊細な絵を描いていました。

その為、戦国時代の武将たちには好まれず「下手右京」と酷評を受けていたそうです。

この光信はライバルであった「長谷川派」と親睦を図ろうとしたり、新たな画風を狩野派に取り入れようとしていた絵師でした。

実は狩野光信の作品は、殆どの人が見た事があります。教科書や歴史の本によく載っている「織田信長像」は狩野光信の作品なのです。

4-3.狩野探幽の作品と人物

狩野探幽(1602年~1674年)は江戸時代に徳川家康に仕えていた絵師でした。

狩野永徳と同じように10歳の時に徳川家康に謁見し、15歳の時には御用絵師となりました。

狩野探幽は様々な絵師に影響を与えました。誰もが観た事がある「風神雷神図」を描いた「尾形光琳」は探幽の作品を模写していたそうです。

また狩野探幽は狩野派の絵師の教育制度を完成させ、狩野派という組織をより強固なものにしました。

また誰もが同じ絵を描けるような教育制度を完成させたが故に、狩野派の絵には個性が無いという批判を生んでしまったのも事実でした。

有名な作品では二条城障壁画や桐鳳凰図などがあります。

まとめ

今回は、武士が政治をするようになってからその傍らにずっと存在していた狩野派について詳しく見ていきました。

何となくCM等で見ていた絵や歴史の教科書に載っている絵はこの狩野派の作品である事が多いです。

何よりも驚いたのは絵師の身分が武士の旗本と同格という事でした。

また面白いのが、天下人に仕えている絵師は実力は狩野派イチでも当主になる事がありませんでした。それは天下人に仕えるという事は、万が一下手を打ったら命を捨てなければならない状況や、戦争に巻き込まれ死んでしまう可能性があったからだそうです。

安定していない世の中に個人ではなく、狩野派を存続させることを第一に考えていたのでしょうね。

昔の時代でも、人間は生活しており侍以外にも様々な職業がありました。調べてみると今では想像つかないような仕事も沢山あるので今回の絵師についてを読んで興味を持ちましたら侍以外の職業を調べてみるのも面白いかもしれませんね。