時代劇のヒーローの真実

最近は時代劇が減ってしてしまい、毎週定期的に放送されている時代劇と言えばNHKの大河ドラマ位になってしまいました。

年末年始では特番で時代劇は放送されていますが、時代劇専門チャンネルにでも入会しないと常に見れる状態では無くなってしまいました。

今回は時代劇全盛期に放送された時代劇のヒーロの中でも今で言う刑事もの、裁判ものに当たる作品に絞り、実際どのような事をしていたか、どのような人物だったかを詳しく見ていきたいと思います。

目次

1.大岡越前の真相

1-1.大岡越前の原作

1-2.大岡忠相の史実

2.遠山金四郎の真相

2-1.遠山の金さんの人気

2-2.遠山の金さんの史実

3.長谷川平蔵の真相

3-1.鬼平犯科帳と長谷川平蔵

3-2.長谷川平蔵の史実

3-3.長谷川平蔵の評価

まとめ

1.大岡越前の真相

最初に紹介していくのは「大岡越前」の主人公である「大岡忠相」です。

この「大岡越前」は1970年~1999年に放送され、2006年に最終回が放送された長寿時代劇でした。

大岡越前の人情深い人柄と明快なお裁きぶりを楽しむ時代劇として人気を博していましたが、実際の大岡忠相はどのような人物だったのでしょうか。

1-1.大岡越前の原作

時代劇以外にも歌舞伎などの題材とされる大岡忠相は歌舞伎の題材にもされています。

その題材の元になっているのが「大岡政談」と言われるサスペンス小説の始まりとされている作品です。

この大岡政談は大人気を得ましたが、実際に大岡忠相が行った裁判は「白子屋事件」のみでその他の話は忠相とは実際には無関係な話でした。

それもそのはず、この「大岡政談」は日本の様々な裁判の話を集め、他の町奉行での裁判を大岡忠相がすべて裁いた話としてつくられたフィクションだったのです。

1-2.大岡忠相の史実

大岡忠相が作品の題材とされるには理由がありました。

大岡越前のような名裁きは実際には行っていませんでしたが作品化されたのは、庶民からの人気が凄かったからです。

享保の改革を実現したり、物価対策、防火対策、救貧対策など沢山の政策を成功させた事から人気を集めたそうです。

忠相は1677年に旗本「大岡忠高」の四男として生まれ、24歳の時に家督を継ぎました。

26歳の時に書院番と言われる役職に就き、36歳の時に山田奉行の職に就きました。

そこでの手腕が買われ41歳の時に町奉行に就き60歳まで町奉行として勤めました。

その後は寺社奉行に出世し、1万石以上の大名となりました。

その後75歳で生涯を閉じました。

2.遠山金四郎の真相

桜ふぶきの入れ墨でおなじみの遠山の金さんこと遠山金四郎ですが、この遠山の金さんシリーズは様々なテレビ局や映画で実写化されました。

この遠山の金さんは「水戸黄門」シリーズと似た構成で出来ており、遠山の金さんが正体を隠し町に調査をし、悪を暴きその後お白洲にて悪人達に啖呵を切り正体を明かすという構成で出来ています。

遠山の金さんはどのような人物だったのでしょうか。

2-1.遠山の金さんの人気

遠山金四郎は歌舞伎から講談、映画、ドラマ等様々なジャンルにて人気があります。

その人気を得たのが北町奉行になった時の活躍がきっかけでした。

遠山金四郎が初めて町奉行になったのが1840年に北町奉行として就任した時でした。この時期は天保の改革が行われた時で、北町奉行も町人達に対し、贅沢の禁止や寄席の削減の実施など一部の政策は実施していました。

しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令には反対し、当時の老中水野忠邦と対立をしていました。

天保の改革の中には「すべての芝居小屋の取り壊し」がありましたが遠山の金さんは強く反対しました。

その理由は芸人の失業と日雇いの人の娯楽がすべてなくなってしまう事をおそれたからです。

その結果芝居小屋は現在の浅草である「猿若町」に集められることになり、現在の浅草が完成されました。

この事から、芝居関係者から「遠山の金さん」の人気が集まり、歌舞伎や講談などの作品が作られ現在に至るのです。

2-2.遠山の金さんの史実

遠山金四郎は1793年に知行500石の明知遠山氏の分家に生まれました。

家庭関係がとても複雑で金さんの放蕩伝説はこの家庭環境から生まれたのではないかとされています。

金さんは養子の父から生まれた子どもでした。その後養子の父が跡継ぎとなるのですが、その後に実の子が生まれます。

金さんのお父さんは養子の自分が跡継ぎとなるのは心苦しく思い、その実の子を養子とし跡継ぎにしました。

今度はその実の子が、金さんがいるのに自分が跡継ぎになるのが心苦しいと思い、金さんを養子として跡継ぎにしました。

こうして金さんは後を継ぐのですが、実の子に子どもが生まれ心苦しい思いをしたのに違いないのでしょう。

この家庭環境から桜ふぶきの入れ墨や遊び人のキャラクターがついたのではないかとされています。

3.長谷川平蔵の真相

長谷川平蔵といえば「鬼平犯科帳」の主人公です。

この鬼平犯科帳は池波正太郎による時代小説で遠山の金さんや大岡越前よりも新しい作品となります。

この鬼平犯科帳は現在でも年一回ペースで放送されており、毎年年末になるとみる事の出来る時代劇です。

鬼平こと「長谷川平蔵」はどのような人物だったのでしょうか。

3-1.鬼平犯科帳と火付盗賊改

鬼平犯科帳は「火付盗賊改方」の役職に就いた鬼平の活躍をドラマに仕立てられたものですが、この「火付盗賊改方」はどのような仕事をしていたのでしょうか。

江戸時代では火付け(今で言う放火)は重罪であり、まず死罪はまぬがれませんでした。

その火付け、盗賊(強盗)、賭博を取り締まる役職が「火付盗賊改方」でした。

町の治安維持を仕事とする町奉行は文官ですが、この火付盗賊改方は武官でした。

江戸時代の盗賊が武装盗賊団であることが多く、基本的に非武装の町奉行では相手になる事が少なかった事と、捜査かく乱の為、犯行後に放火をする事が多かった為に今で言う警察のようなものとして設置されました。

また、町奉行のような裁判権はもっておらず出来るのは調査まででした。

その為横暴な検挙が多く、冤罪・誤認逮捕も多く町人からも同業者の同心や与力などからも嫌われていた職業だったようです。

ちなみに長谷川平蔵のモデルとなった長谷川宣以は165代目の火付盗賊改方頭でした。

3-2.長谷川平蔵の史実

長谷川平蔵は「長谷川宣以」という人物の事を指す通称で本名とは少し違います。この長谷川宣以は面白い経歴を持っているので紹介して行きたいと思います。

長谷川平蔵は1745年に400石高の長谷川宣雄の子として生まれました。ただこの平蔵は奥さんから生まれた子ではなく奉公に来ていた女との間の子でしたが当時はよくある事だったようです。

平蔵一家が平蔵19歳の時に屋敷を引っ越しました。その頃から町の無頼の連中たちと交流があったようで「本所の銕(てつ)」と呼ばれる程名を売っていたそうです。

その為将軍の臣になるのが遅く25歳の時に初めて将軍に御目見得したそうです。

その後、様々な役職に就きましたが、火付盗賊改方加役に就任した年に浅間山の噴火が起こりました。そこで物価の価格高騰に苦しむ庶民の暴動を鎮圧するのに活躍したことから一目おかれるようになりました。これが「鬼の平蔵」の誕生のようです。

3-3.長谷川平蔵の評価

歴史研究家の中では、犯罪を厳しく摘発したことよりも別の点で評価される事が多いのです。

長谷川平蔵は「人足寄場」と言われる施設を創設しました。これは無宿者を更生するための施設で、犯罪の温床となっていた無宿者や無法者を弾圧や取り締まりだけでは解決できないとしたため作られたそうです。

これは若い頃に無頼の連中と交流があった為、彼らの考えや心情が理解できたからできた事なのでしょう。

まとめ

今回は町奉行・火付盗賊改方を題材とした時代劇の人物を詳しく掘り下げていきました。

こうしてみると時代劇のヒーロは若い頃にやんちゃをしていた人が多いように思えますね。

またどの人物も共通して言えるのは「町人」から慕われていたという事です。時代劇と史実では違う点があっても、人望があった事には変わりはなさそうです。

どの時代劇も立ち廻りシーンがあり、様々な得物が登場し面白い立ち廻りが観れるので興味を持ちましたら一度見てみることをお勧めします。