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江戸時代の政治のしくみ

歴史コラム

前回のコラムでは知っているようで知らなかった侍の階級と地位に関して見ていきました。

引き続き、江戸時代の侍の仕事で名前は知っているけど何をしていた分からない仕事や役職に注目していきます。

取り上げるのは江戸幕府でのお仕事。大老とか老中とかは単語としては知っているけど実際はどのような事をしていたかは知らない、昔勉強したけど忘れてしまった人が多いと思います。

さっそく仕事の内容などを見ていきたのですが、仕事の内容を知る前に少し知識があった方が分かりやすいので、今回は江戸幕府について少し勉強していきます。

時代物の作品をより楽しめるように今回のコラムで一緒に勉強していきましょう。

目次

1.朝廷と幕府の関係

1-1.朝廷は何をしているのか

1-2.朝廷と将軍の関係

1-2-1.禁中並公家諸法度の内容

2.江戸時代の大名と種類

2-1.関ヶ原の戦いが与えた影響

2-2.徳川幕府と大名

2-3.譜代大名

2-4.親藩

2-5.外様大名

まとめ

1.朝廷と幕府の関係

歴史を勉強していくと「朝廷」という機関が度々出てきます。

朝廷とはそもそもどのような機関で何をしていたのかはご存知でしょうか。朝廷自体は鎌倉時代に入り武家社会が成立すると表だったことは少なくなりますが、歴史を知っていくうえで知っておいて損はないのでここで勉強していきましょう。

ここでは朝廷と幕府の関係性をみていきたいと思います。

1-1.朝廷は何をしているのか

朝廷とは、君主制(国を統治トップが1人存在している政体)で君主の下で政治を運営している組織です。

日本の場合当時は天皇が君主として君臨していました。

鎌倉時代になると源家による武家政治が始まり、政治の実権はなくなってしまいましたが朝廷は存在していました。

武家社会になるまでは、朝廷が政治を行っておりました。鎌倉時代よりも前の歴史を勉強していると出て来る「壬申の乱」は武家や侍の話では無く、公家(朝廷に仕える貴族や官人)同士の争いだったわけです。

江戸時代より前は朝廷は幕府とは別組織として存在していた為、勢力を持っていましたが江戸時代に入ると徳川幕府の政策で完全に朝廷は幕府の配下になってしまいました。

1-2.朝廷と将軍の関係

前回のコラムで将軍は「征夷大将軍」の略称である事は紹介しました。しかし、少し考えてみるとこの将軍というのは誰が決めているのかが分からないですよね。

この征夷大将軍を任命しているのが「朝廷」でした。

これだけを見ると将軍を任命している「朝廷」が「将軍」よりも偉いように見えますが、鎌倉時代から政治に関しての実権を朝廷は持っていなかったため、将軍の任命は形式的・儀礼的で政治の中心は武士である幕府にありました。

江戸時代になると幕府が「禁中並公家諸法度」を施行したりと、完全に江戸幕府に管理されていました。しかしそれ以前は各国に国司を派遣し、独自の財源なども持っておりそれなりに力は持っていたそうです。

鎖国によって独自の財源も武力も無くなった為、幕府に従ったのだと言われています。

1-2-1.禁中並公家諸法度の内容

この禁中並公家諸法度という法律ですが、幕府と朝廷の関係がよくわかる内容となっています。

1615年に徳川家康が、幕府による天皇権威や朝廷機能の独占の為に施行した法律です。天皇の譲位や即位までを武士の意思に従わせてしまうほどの力が幕府にある事が分かるものでした。

17条から構成されており、天皇のあるべき姿についてや即位に関して等の内容が書かれています。

2.江戸時代の大名と種類

江戸時代石高1万石以上の領地を持つ侍は「大名」と呼ばれていました。この大名にも種類があり、大名を分類する事によって江戸時代の組織としての基盤を大きく固めることに成功しました。

また大名の種類によって就ける役職にも制限があるため成り上がるのは中々苦労したそうです。

2-1.関ヶ原の戦いが与えた影響

大名の種類を見ておく前に、関ヶ原の戦いでの戦績が大きく江戸時代の役職に影響されているため、関ヶ原の戦いについて少し見ておきましょう。

1600年に岐阜県で起こった合戦で、徳川家康率いる「東軍」と石田三成率いる「西軍」の闘いでした。結果はご存知の通り徳川家康率いる東軍が勝利します。その結果豊臣家は222万石から65万石になり、徳川家康は255万石から400万石へと増加し、徳川家による権力掌握が見えたものになりました。

関ヶ原の戦い以降徳川家の配下になったか、関ヶ原の戦い以前から徳川家の配下だったかによって江戸時代の地位が大きく変化していきました。

2-2.徳川幕府と大名

徳川幕府は大名を3種類に分け、政治を進めていきました。その区分が関ヶ原の戦いより前に徳川家に仕えているのか以降で徳川家に仕えているのかによって分かれています。

「譜代大名」「親藩(大名)」「外様大名」の3種類にわかれていました。ここで注目するのは江戸に近いところには親藩、譜代大名を置き、江戸から遠いところに外様大名を配置しました。

更に「参勤交代」という制度があり、「外様大名」のみ数年に一度江戸へ足を運ばなくてはなりませんでした。後に「譜代大名」も参勤交代の義務化がされますが、最初は外様大名のみの義務でした。

当時自分の足でしか移動する事が出来ない為、江戸に行くまでにはかなりの労力や人員が必要でした。この参勤交代は反乱が出来ないように、経済力や体力を奪う目的がありました。

次は大名の種類から見ていきたいと思います。

2-3.譜代大名

譜代大名は関ヶ原の戦い以前より、徳川家についていた大名を指します。この譜代大名は比較的重要な役割を持つ仕事が担当する事が多く、譜代大名以外の大名では幕府の政治にかかわる事が出来ませんでした。

譜代大名の始まりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、重要な武将にお城を与え、大名に仕立て上げ、自身を支えるように働いてもらうようにした事がきっかけでした。

老中や若年寄という江戸幕府の重要な仕事に就くには譜代大名のみでした。幕末の時期以外は譜代大名以外に幕府の政治には関わらせない取り決めがありました。

2-4.親藩

次に親藩と呼ばれる分類について説明を簡単にしたいと思います。

分類としては「大名」ではなく「藩」の分類になるのですが、譜代大名や外様大名とは違った性質を持っています。

親藩は徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩で、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担っていました。

この親藩には御三家があり、「尾張徳川家」「紀州徳川家」「水戸徳川家」の三家は親藩の中でも特別な扱いだったようです。

水戸徳川家は時代劇の水戸黄門で聞いたことはあるのではないでしょうか。

2-5.外様大名

この「外様」という言葉は室町時代からあり、元々は主家と緩い主従関係を持った家臣を指す言葉でした。外様大名は政治には絡むことはほぼ不可能な為軍事的な動員などに応じるだけの場合が多かったそうです。

関ヶ原の戦い以降に徳川家についた大名を「外様大名」といいますが、豊臣政権時代には徳川家康と同じレベルの大名だった力のある人物が多い為、危険視をした徳川家康は「外様大名」を関東や京、大阪、東海道沿いなどの重要な土地の近くには置かれなかったそうです。

まとめ

今回は詳しく侍の仕事を見ていく前に必要な知識を紹介しました。

江戸時代がここまで長く続いたのは政治に関する整備がしっかりしていたからだったようです。やはり江戸時代をどのように生きれるかを分けたのが「関ヶ原の戦い」で、その時に西軍と東軍どちらについたかによって大きく左右されたようですね。

朝廷と幕府、大名、旗本、御家人など知っているようで知らない所を詳しく見ていきました

もう必要な知識はそろったので次回はいよいよ詳しく侍の仕事・江戸時代の組織に関して紹介をしていきたいと思います。

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