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日本のお城とその歴史

歴史コラム

大河ドラマ「真田丸」が今年から始まり、真田ブームが起こり長野県にある上田城が人気の観光地になっています。
この上田城ですが、当時のものでは無く復元されたもので、日本国内で当時のまま天守閣が現存するお城は12城しかなくとても貴重な文化財になっています。
当時のまま現存する城が少ないのは明治の廃藩置県によって日本全国の城が「廃城」となり数が減り、第二次世界大戦の敗戦によって破壊されたり、取り壊されたりした為です。

このように城の歴史を見ていくと、時代の流れによって様々な影響を受けています。
そもそも「城」とは何の為に生まれ、どのように変化していったのでしょうか。
今回のコラムでは「城」の歴史とその変化を見ていきたいと思います。

目次

1.城の語源と意味
1-1.城と柵
1-1-1.城の由来

2.城の歴史と変化
2-1.古代・上世の城
2-1-1.平安初期の城

2-2.中世の城 城郭の登場

2-3.戦国時代の城
2-3-1.戦国時代初期の城
2-3-2.戦国時代中期の城
2-3-3.天守閣の役割

2-4.江戸時代の城

まとめ

1.城の語源と意味

 

現在の私達の城に対する認識は「侍や殿様が居た所」程度だと思います。

実際に戦国時代の城は軍事施設の要素が強く、江戸時代の城は政治を行う政庁としての役割が強くなっていきます。

時代によって存在意義が変化する「城」ですが、そもそも「城」と呼ばれる建物はなぜ「シロ」と呼ばれるようになったかをご存知でしょうか。

詳しく見ていく前に「城」と呼ばれるようになった理由をまずは見ていきたいと思います。

1-1.城と柵

古代から中世までは、「城」という漢字以外に「柵」という漢字も使われていました。また読み方は「シロ」では無く「キ」と呼ばれていました。

そもそも日本の城の文化は唐や新羅に対する防衛施設として作られたのが最初で、集落を土塁や石塁で囲み敵から守る事が目的でした。

中国の歴史書では木の柵で囲まれている城がある事が書かれており、日本でも古事記や日本書紀内に「キ」という表記がある事から中国大陸から由来した言葉ではないかとされています。

また日本の古代のお城は「城」と書いても「キ」と読むそうです。

中国大陸からの侵略に抵抗するための「城・柵」だったため、日本海側の東北に多く存在していたそうです。

 

1-1-1.城の由来

城や柵を「キ」と呼んでいたのが「シロ」と呼ばれるようになったのはいつ頃なのでしょうか。

「シロ」に「城」を当てて読むようになったのは、平安時代頃と言われており、「山背(やましろ)」国を「山城(やましろ)」国に読み変えた事がきっかけとされています。

歴史の変化と見比べてみると面白く、「城」が「領域を区切る」という意味を持つようになり、「城」の意味に「縄張り(居住区の区分をつける)」のような意味も持つようになります。

それが発展し「城」が政治や軍事的機能が重要視されるようになり「城下町(じょうかまち)」が生まれ、南北朝時代以降は「城(シロ)」と呼ばれるようになります。

2.城の歴史と変化

城の語源と由来は先程の項目で見ていきました。

ここからは時代の変化によって「城」がどのように変化していったのかを見ていきたいと思います。

2-1.古代・上世の城

 

先程の項目で少しだけですが、日本の城の始まりは唐・新羅の侵略を防ぐために作られたことをについて説明はしました。

現存こそしないものの日本で最初の城は福岡県にある「水城(みずき)」という城でした。

しかし、城と言っても現在の私達が想像するようなものでは無く特別な建築物は無く土塁と外濠で構成されている巨大な城壁でした。

その後、「大野城(おおのき)」と呼ばれる城を建築しました。

この大野城は、日本に亡命をしてきた百済人を中心に作られた城で、やはり当時の中枢であった太宰府の防衛施設として建設されました。

 

2-1-1.平安初期の城

 

当初は、唐・新羅からの侵略を防ぐ防衛施設だった城ですが、結局侵略が無いまま時代が過ぎていってしまいました。平安初期には海外に対する防衛の必要性が無くなりました。
この時に建てられた城は百済人の指導を受けたことから「朝鮮式山城」と呼ばれています。

また、当時の政府は東北蝦夷地への侵略を進めていた為、東北に19の城柵を作りましたが蝦夷が帰順したことから防衛や侵略の施設としての必要性が薄れました。
その時建てられた多賀城や秋田城が陸奥鎮守府や出羽国府となり、政治・経済の中心部としての意味合いを城はもつようになりました。

2-2.中世の城 城郭の登場

 

中世から戦が激しくなり、また武家社会が発達して行くので武家の平時の居住地への防護・戦時に使用する防護施設の必要性から城が発達していきました。

平安時代後期や鎌倉時代に入ると「城郭(じょうかく)」という言葉が記録資料や日記などに出てきます。

この時代の「城郭」は堀などの敵の進路を遮断するために設置をするバリケードのようなものでした。

またこの時代の城のほとんどが険しい山に建てられた山城で、軍事的要素の強い城が多かったようです。

「千早城」で行われた「千早城の戦い」は山城の地形を利用した楠木正成の奇策によってわずかな兵で90日間をかけた籠城戦を行い、幕府の大軍相手に戦い抜いた事から全国に倒幕の流れを生みました。

このように中世から城は戦いの拠点となる事が多くなっていきました。

2-3.戦国時代の城

ここまでの内容を見ると城は山の中にあるものという事が分かりますが、現在の私達がイメージするお城は平地にあるものが殆どだと思います。

その原因は戦国時代にありました。

戦国時代は世の中の流れが変化し、軍事的、政治的にも様々な変化が起こりました。なぜお城が山の中から平地に出てきたのかを見ていきたいと思います。

2-3-1.戦国時代初期の城

戦国時代初期頃はまだ山城が多く、城は山にある事が殆どでした。

この頃から「根小屋」「館」「屋形」などと呼ばれる領主の住居が建てられる事が多くなっていきます。この館は周囲に堀を巡らせ、門に櫓を配置するなどして城としての機能を持っていました。

この頃から家来の屋敷や農民等の住居が館の周りにあり、簡単な城下町が出来あがっていました。

戦国時代初期では戦中敵に攻められた際は山城に籠り防御拠点とし、平常時は館に住むという状態だったそうです。また山城は「詰めの城」と呼び、軍略的に重要な拠点にも「支城」と呼ばれる城を建て、支城と本城の間にも中継地点の城を建てたようです。

2-3-2.戦国時代中期の城

戦国時代中期に入るとさらに戦が激しくなり、鉄砲の伝来などにより城の造りにも大きな影響を与えていきました。

それだけでは無く政治の拠点としての機能が重要視されるようになった為、政治の拠点としての機能が弱い山城の数が激減し、丘陵に建てる城「平山城」や平地に建てる城「平城」が主流になっていきました。

また「村の城」と呼ばれる施設が登場しました。これは戦が日常的に起こるようになった為、地域の住民の避難場所として利用されていました。

2-3-3.天守閣の役割

現存している城と言うと天守閣が残っている事を指す程、私達の中でもお城の象徴となっています。天守閣が無い城は「城アト」と表記されたり、御殿が当時のまま残っていても城が現存していると言わない事が多いです。

天守閣が多く作られるようになったのは戦国時代からなのですが、実際天守閣はどのような役割があったのでしょうか。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城は住宅として天守閣が使用されていました。

しかし、これは稀なケースでほとんどの城主は「本丸」(城主と家族が暮らす御殿や政庁である表御殿)を住居としており、天守閣は主に物置として使用されていたそうです。

豊臣秀吉の大阪城・伏見城から天守閣のある城が流行し、城主の権威の象徴となっていきました。

 

2-4.江戸時代の城 一国一城令

天下統一がされ平和な世の中になり城のあり方が大きく変わっていきました。

軍事拠点としての意義が薄くなり、政治の場として城は使用されていくようになります。

さらに、江戸時代以前は3000近くあった城が170までに減ります。その原因は徳川幕府の「一国一城令」です。

この一国一城令は簡単に説明すると、大名の領国1つにつき城は1つまでしか所有を認めず、その他の城はすべて廃城とするという法令です。

この法令は関ヶ原の戦い以降に徳川家の大名となった「外様大名」を管理するために徳川幕府が出した法令で、画一的に実施されたものではありませんでした。

一国一城令が施行された結果、城の数は減りましたが家臣団や領民が城下町に集中するようになりました。

また幕末になると、外国船への対策として台場や砲台が作られるようになりました。

その結果西洋式建築の影響を強く受けた「五稜郭」のような城が建築されるようになりました。

 

まとめ

今回はお城の語源から時代によっての城の使われ方を見ていきました。

城はただの防壁から始まり、防衛施設としての拠点となり、政治の場と変化していきました。

戦国時代では3000近くあった城は現在では12城しか現存しておりません。

江戸時代の一国一城令で170まで減り、幕末には内乱や諸外国との不公平な条約の締結などから築城する余裕がなくなりました。

明治時代に入るとお城は日本陸軍の駐屯地となり、第二次世界大戦で現存していた城に関する建築物60棟が破損し、現存するお城は12城のみとなりました。

 

こうして減ってしまったお城ですが、真田丸ブームや刀剣ブームによって日本国内でも国外からでもお城に訪れる人が増えています。

歴史上の人物は当時の資料から想像する事しか出来ないですが、お城は実際に当時あった確かなものです。そこから当時の事を想像したり、雰囲気を感じたりする事が出来るから沢山の人が訪れているのかもしれませんね。

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