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江戸の娯楽

歴史コラム

前回に引き続き江戸時代の庶民の暮らしについて見ていきたいと思います。
前回は衣食住に注目していきました。江戸時代の人々は陽の動きと共に生活をし、人付き合いを大切に暮らしている事が分かりました。
ファッションは粋でいなせなスリムなファッションを目指し、当時のファッションスターは歌舞伎役者や遊女で、彼らのファッションに庶民は憧れ流行の中に乗りながらも他の人と被らないよう、自己流のファッションを目指していました。

前回は、生活の基盤を見ていきました。今回は江戸時代の庶民の方々はどのような「娯楽」を生活の楽しみにしていたのかを見ていきたいと思います。

目次

1.江戸時代の娯楽

2.見世物小屋
2-1.見世物小屋の種類
2-2.見世物小屋の興行期間

3.江戸時代のギャンブル
3-1.ギャンブルの種類
3-2.江戸時代の宝くじ「富くじ」

4.歌舞伎
4-1.歌舞伎の観方

1.江戸時代の娯楽

今では携帯やゲーム機、レンタルDVDショップ、映画館、テーマパーク、劇場など好きな時に好きなモノがいつでも見れる、楽しめる状態にあります。
江戸時代にはもちろん携帯やゲーム機はないですし、劇場のようなものはありましたが今ほど数は無く、歌舞伎も一年間に10回興行すればいいくらいでした。
何事も楽しめる時間に限りのあった江戸時代の庶民は娯楽にも全力を注ぎ、ひとつひとつの行事がお祭りごとのように盛り上がったそうです。
どのような娯楽があったかを見ていきたいと思います。

2見世物小屋

 

最近ではもうほとんど聞かなくなってしまった「見世物小屋」これが江戸時代大人気だった娯楽のひとつだったようです。

2-1.見世物小屋の種類

当時の見世物小屋は大きく分けると3種類ありました。
一つは手品や力持ちなどの技術系の見世物小屋。この手の小屋で人気だったのは「人馬」という技で、肩の上に人を立たせ猛スピードで疾走し、肩の上の人がその勢いで飛び上がり、9mもある障害物を飛び越えるというものでした。
その他には玉乗り、刀の刃渡りなどが人気だったそうです

2つ目は珍しい動物や植物などを見せる天然物系の見世物小屋。人面魚や人間の形をしたニンジンなどを見せたり、ラクダやトラ、象を見せる見世物小屋がありました。これらの動物は外国から長崎に運ばれて江戸に送られてきたそうです。
文久元年(1861年)に江戸の麹町や両国で、初めてトラが見世物になった時には江戸中の人々が集まったそうです。人出の多さに3日目には、町奉行から禁止のお触れが出るほどの大盛況だったようです。

3つ目は、粘土細工のようなものや人形、籠、貝、紙、菊などの細工物系の見世物小屋。
上の2つとは違い、珍しいものやびっくり人間とは違い、職人の技術を見せる、見世物小屋だったのでしょう。

2-2.見世物小屋の興行期間

これらの見世物小屋は、農村では村祭りのときに1週間ほど興行されるだけでした。
江戸では浅草寺、上野山下、江戸橋広小路などで頻繁に開かれていました。
近くに有名な寺があるので、秘仏の公開時などの人が集まる時期を目当てにこのような見世物小屋が立ったようです。

見世物小屋は今でいう移動式サーカスのようなものでしょうか。中には奇形の人を見世物にしたりと、現在では問題になりかねないものもありました。身近にないもの、珍しいものを見て楽しんでいたのでしょう。
ちなみに、現存する見世物小屋は大寅興行社という団体1つのみだそうです。

3.江戸時代のギャンブル

 

現在では競馬やパチンコなど、とても身近な存在になっているギャンブルですが江戸時代にはどのようなギャンブルがあったのでしょうか。
ヤクザ映画などでは丁半などがよく行われていますが、どのような人がどのようなギャンブルをしていたのでしょうか。

3-1.ギャンブルの種類

江戸時代には「闘犬」「闘牛」「闘鶏」などをはじめとしたギャンブルが流行していたみたいです。これだけに収まらずクモやウグイスもギャンブルの対象になっていたようです。

クモを使ったギャンブルは、水を張った桶の上に一本の棒を置き、その棒の両端からクモを渡らせ、中央で二匹のクモが出会ったとき、相手のクモを後戻りさせた方が勝ちというルールだったようです。
ウグイスを使ったギャンブルは上流階級の人のみの遊びでした。
飼育しているウグイスを持ち寄り、部屋中央に設置してある梅の盆栽に向けて一斉にウグイスを放し、一番早く盆栽に止まったものを勝ちとするというものでした。

これらのギャンブルよりも一番人気だったのが、サイコロ賭博でした。
「丁半」も人気でしたが、一番人気だったのは「きつね」というサイコロ賭博でした。
この「きつね」は3つのサイコロを振って、出る目を当てるというもので、一つ当たれば掛け金の倍、二つ当たると掛け金の3倍、すべて当たると掛け金の4倍になるというものでした。

これらのギャンブルは性別年齢問わず流行していました。
1800年頃、野菜売りの稼ぎは1日100~200文(現在の1500円~3000円)程度でした。
この少ない稼ぎで夫婦そろって博打にのめり込んでいる場合が多く、文無しになってしまう場合が多かったようです。そもそもの貯蓄が無いので1日の稼ぎが無くなってしまえばその日の博打は終わりになり、勝てばパッとお金を使い、買っても負けてもお金を使い切っていたようです。
江戸っ子は宵越しの金は持たないというのは本当だったのかもしれませんね。

3-2.江戸時代の宝くじ「富くじ」

現在でも多くの人が夢見る宝くじ。この宝くじは江戸時代ではすでに大人気でした。
当時の宝くじは「富くじ」と呼ばれ、各地の寺社が運営していました。
この富くじは自社の修復費の費用集めとして行われていました。寺社の中でも谷中の感応寺、目黒不動、湯島天神の富くじが「江戸の三富」と呼ばれていました。

気になる富くじの値段ですが、一口2分、現在ですと3万円程度でした。かなり高額なものでしたので、庶民は共同出資して富くじを購入していました。
富くじの当選金額は最高金額が100両~300両でした。300両は現在でいう1800万円程度でしたので、10人で共同出資し、当選したら180万程手に入るので、夢中になった人がたくさんいたそうです。

いつの時代も、夢があるギャンブルは大人気だったようです。
江戸時代は基本的に長屋の家賃も日払いでしたし、その日のお金はその日に稼ぎ、使うみたいだったのでギャンブルもその日の最後の大勝負のような感覚だったのでしょうか。
基本的に人が夢中になるものはどの時代も同じだったようですね。

4.歌舞伎

江戸で一番の娯楽といわれていたのが「歌舞伎」でした。江戸で「芝居」といえば、歌舞伎の事を指していたようでした。
この歌舞伎ですがたびたび幕府から風紀を乱すという理由から規制を受けてきました。天保の改革では、各地にあった芝居小屋が1か所にまとめられ、猿若町と名付けられました。この町が現在の浅草です。ここに中村座、市村座、森田座の江戸三座、その他に人形浄瑠璃の芝居小屋が建てられていました。
現在でも様々な手法を凝らし、幅広く人気のある歌舞伎ですが、江戸時代の歌舞伎は庶民にとってどのような存在だったのでしょうか。

4-1.歌舞伎の観方

現在は、比較的公演も行われていて、観たいときに観ることのできる歌舞伎ですが、江戸時代では昼の興行しか認められていませんでした。
これは火事が起こることを防ぐためでした。当時は電気が無く、ロウソクを照明として使用していた為、芝居小屋は何度も火事が起こっていました。そのため昼間しか興行が認められませんでした。

しかし、江戸の人たちは歌舞伎を観に行く日には真夜中から出かけていました。というのも歌舞伎の一座は年に10回程度しか興行せず、観劇するチャンスがとても少なかったからです。そのため、歌舞伎を観にいくのは一大イベントだったようです。
そのため観客は前日から会場へ詰めかけ、気分を盛り上げ一座からは雑煮が振る舞われていました。
観客はみな最大限のおしゃれをし、お弁当やお菓子の準備をし、最大限に楽しんでいたそうです。

現在と大きく違う所は舞台と観客の関係性だったみたいです。
当時は、舞台と観客席は一体という考え方で、舞台と客席に区画を引くものがありませんでした。そのため大入りの日などは観客は舞台に上がって観てもよかったようです。
役者に声をかける大向こうなどはこの時から文化として根付いていたようです。

まとめ

江戸時代の娯楽は、現在の娯楽と大きな違いはありませんでした。今でいうサーカスや、ギャンブル、現在でも大人気の歌舞伎。時代は変われど人間の娯楽は大きく変わらないのかもしれません。落語もこの江戸時代に生まれました。
時間の感覚や生活の基盤こそ違うのかもしれませんが、根本的な部分では現在の私たちと江戸時代の人たちは同じなのかもしれませんね。
歌舞伎や落語等日本独自の文化で現在でも体験することのできる娯楽を、食わず嫌いせずに一度観てみたら江戸時代の人たちが熱中した理由が分かるかもしれません。一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

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