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江戸の色町・吉原

歴史コラム

前回、江戸のお洒落な男達である通人を紹介しましたが、今回は通人達がお金をかけて身だしなみを整えて通っていた吉原を紹介します。

吉原とは、江戸幕府公認の色町として栄え、そこでは華麗な花魁による花魁道中が行われ、彼女たちは浮世絵や歌舞伎のモデルとなり、魚河岸と芝居町と合わせて「江戸の名物三千両」とも言われ、一夜で千両ものお金が動いたとも言われています。

目次

1.吉原とは
1-1. 元吉原と新吉原
1ー2.吉原の町並み
2. 遊女屋
2-1.遊女屋の種類
2-2.遊女屋の店構え
2-3.顔見世
 3.遊女屋の遊び方
3-1.引手茶屋
3-2.初めて吉原に行ったら
3-3.高級遊女と遊ぶには
3-4.おしおき
 
4.最後に

1.吉原とは

1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと江戸城の改築、増築で日本中から江戸に集まりました。集まってきたのは武士や職人といった男性が大半で、これに目を付けた上方の傾城屋(けいせいや)と呼ばれていた遊女屋が江戸の麹町や鎌倉河岸あたりに次々と移転して来ました。傾城屋は大いに栄え、遊女が増えすぎて幕府が遊女を一定数江戸から追放するという策を取るほどでした。江戸の楼主(ろうしゅ、遊女屋の経営者)達は合同で幕府に、幕府公認の遊女町を作りたいと願い出たのでした。しかしすぐには実現せず、1612年に庄司甚内という楼主が改めて設立要望書を提出。その設立理由は、遊郭を作れば好き放題やっている傾城屋達を一か所に集めて監視下に置いて治安維持になるというものでした。そして大阪の陣が終わった1617年に幕府は遊郭の設置を承認したのです。

1-1.元吉原と新吉原

吉原は人形町に作られましたが、当時人形町は葭(よし)や茅(かや)が生い茂る湿地帯であり人が住めない場所でした。庄司甚内はそれらを刈り取って営業を開始。葭を刈り取って作ったので「葭原」と名付けられましたが後に縁起のいい「吉」に変えられました。こうして吉原が誕生し、江戸の傾城屋と上方の傾城屋が吉原に移転、遊郭が出来たわけですが、徐々に吉原の周囲に開発が進み家が建ち人が増えると、幕府は1656年に風紀の乱れと治安悪化の理由から吉原をある一定の条件を与えるのと引き換えに浅草寺の裏の日本堤に移転させることにしました。移転が決まった翌年に江戸を焼き尽くした明暦の大火が起こり、吉原も全焼しました。

吉原の引っ越しは2日間に渡って行われ、この時きれいな遊女達を一目見ようと多くの見物人が集まりパレードと化したそうです。こうして誕生した新吉原を「吉原」人形町にあった吉原を「元吉原」と呼ぶようになりました。

1-2.吉原の町並み

吉原は総面積2万700坪の広さで長方形の形をしており、四方には黒板塀がめぐらされ外の田園から確立されており、さらに外側には「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅3.6メートルの堀で囲まれていました。堀は、不審者を取り締まるのと遊女の逃亡を防ぐのに便利だったそうです。

吉原唯一の出入り口が「大門(おおもん)」です。吉原の出入り口はここだけで、やはり逃亡が難しかでもったようです。医者以外は駕籠に乗ったまま大門をくぐってはならないというしきたりがあり、大名大門の前で駕籠を下りました。

大門から入って奥の水道尻(すいどじり)まで続く大通りがメインストリートの「仲の町」。ここは大通りというだけでなく、吉原の四季ごとの催し物も行われました。春には桜並木が植えられ、江戸からたくさん見物客が来ました。

その仲の町を横切る三本の通りがあります。この通りが「五町」と呼ばれる江戸町一丁目、江戸町二丁目、角町、京町一丁目、京町二丁目それぞれの町の表通りで、両側に遊女屋が並んでいました。その他に揚屋町や伏見町がありますが、揚屋町には遊女屋はなく、商人や芸者が住んでいました。

また、吉原の全体図から見て右端には西河岸、左端には羅生門河岸という裏通りがあり、五町と比べて値段の安い遊女屋が並んでいました。

これが吉原の全体像でありこの敷地の中で一万人の人々が生活しており、一日千両ものお金が動いていたのです。

2.遊女屋

2-1.遊女屋の種類

吉原のお金を動かしていたのが遊女屋。遊女屋は「妓楼(ぎろう)」とも呼びます。遊女屋には大見世(おおみせ)、中見世、小見世、切り見世(きりみせ)と四種類があり、格付けされていました。大見世が一番高級な店で、遊女がすべて花魁(おいらん)と呼ばれる高級遊女で揚代(あげだい、遊び代金)は金二分以上かかりました。(そば換算で、そば126杯分)

中見世には花魁と、揚代金二朱(金二分の四分の一)の遊女がいました。小見世には金一分の遊女と金二朱がいました。裏通りに並んでいた切見世は最下級の遊女屋で、大見世から小見世の遊女の定年が28歳でしたが切見世には年齢制限がありませんでした。揚げ代は百文が相場(金二朱の五分の一)で他のお店と違って時間制でした。

2-2.店構え

遊女屋は切見世以外は2階立てです。大見世は一番高級でお店の規模も大きく間口24メートル、奥行き40メートルもありました。大見世は直接お店に行くのではなく、引手茶屋(ひきてぢゃや)を通さなければ遊べませんでした。茶屋でひとしきり飲んでから茶屋の案内で遊女屋に向かうか、指名した遊女が茶屋まで行き、茶屋で遊んでから一緒に遊女屋へ行くこともありました。この引手茶屋に花魁が出向くことが有名な花魁道中です。

中見世は引手茶屋を通さなくても遊べますが、引手茶屋を通さなければならない花魁も在籍しているので「交り見世」とも呼ばれました。小見世よりは格式が高く、羽織を着ていない半纏着の職人などはお店に上げてもらえませんでした。

小見世はすべての遊女と引手茶屋を通さず遊べ、半纏着でも入れました。

切見世はと言えば、人が二人並べないほど狭い裏通りで両側に長屋が並んでおり、その長屋を間口1.4メートル、奥行き1.8メートルに割って部屋がありました。土間に化粧台、鏡台、座布団が置いてありました。便所はなく、客は我慢しなければならなかったようです。隣の部屋とは襖一枚しかないので、声は丸聞こえでした。裏通りの情念河岸、西念河岸、羅生門河岸の中でも羅生門河岸にあった切見世の遊女はとくに品がなかったとされ、通る男の袖をつかんで無理やり見世に引きずり込んだそうで、これが羅生門河岸の名前の由来でした。

2-3.顔見世

時代劇で描かれる吉原でもよく見る光景ですが、遊女屋の1階には通りに向かって座り顔を見せる「張見世(はりみせ)」をする部屋がありました。部屋には「籬(まがき)」と呼ばれる細い格子が窓にはめられており、大見世は窓全体、中見世は四分の三、小見世は下半分だけ籬がはめられていました。これで、客は見た目だけで料金を判断できました。大見世の遊女は本来は張見世をしなかったそうです。

3.遊女屋の遊び方

3-1.引手茶屋

引手茶屋は客を遊女屋に案内する茶屋ですが、高級遊女と遊ぶにはまずこの引手茶屋を通さなければなりませんでした。元吉原の時代には客と遊女屋の仲介は「揚屋(あげや)」がしており、引手茶屋は元々揚屋に客を案内するのが役目でしたが、揚屋制度はお金と手間がかかり客は直接遊女屋に行くようになったので、1751~1764年の間に揚屋は全てなくなりました。

大見世で遊ぶには必ず引手茶屋を通さなければなりませんが、交り見世である中見世は引手茶屋を通す客を優遇しました。引手茶屋を通せば引手茶屋が客の代金を立て替えてくれ、遊女屋は客にいちいち請求せずに済み、無銭飲食をされても引手茶屋が取り立ててくれました。落語などで、吉原で遊びすぎて借金まみれになる若旦那が出てきますが、これは引手茶屋への借金だったわけです。

3-2.初めて吉原に行ったら

高級遊女と遊ぶには引手茶屋を通さなければなりませんが、通さない場合は中見世や小見世に行って張見世をしている遊女の中から探すことになります。探していると客引きが寄ってきて声をかけてくるので、相手を決めた旨を伝えると客引きは店に知らせ、酒や料理、芸者などの注文を聞いてきます。ここでケチると遊女の機嫌をそこねるので、いくらかは注文しなければなりません。二階に上がり、初回の客はまず引付座敷に通され、遊女と顔を合わせます。ここで遣手(やりて、遊女達の監督の女性)の仲立ちで遊女が一夜の妻となる杯を交わします。それが終わると遊女の部屋に通され、料理が来ます。これが空になったところで布団が運び込まれ、朝まで過ごすことになります。

3-3.高級遊女と遊ぶには

大見世の遊女と遊ぶにはまず引手茶屋からです。客は茶屋で一席設けて遊女屋への案内を待ちます。茶屋での遊興が終わると遊女屋へ案内されますが、遊女が引手茶屋まで来る時もあります。この場合は禿(かむろ)、新造(しんぞ)といった遊女見習いよ遣手も一緒についてきて飲み食いするのでお金がかかります。しかし遊女屋に一緒に向かう時は目立つので客は晴れがましい気持ちになります。高級遊女は初回の客とは寝ないどころか飲み食いもせず「はい」「いいえ」くらいしか口を利きませんでした。初回はふられて終わりです。

二度目に来ることを「裏を返す」と言いますが、客は遊女に忘れられないために一週間以内にまた来ます。ここで遊女は話に付き合ってくれますが、「裏祝儀」という祝儀を遊女と遊女付きの若い衆に渡す必要がありました。揚代と同額です。三度目に「馴染」となり遊女と遣手に祝儀を渡して初めて遊女の部屋に入れました。ちなみに、初回でも遊女、遣手、若い衆、禿や新造にも祝儀をはずめば三度通わなくてもよかったそうです。

3-4.おしおき

吉原には独特の私刑が許されていました。吉原では、馴染の遊女がいるのにほかの遊女屋に通ってはならないルールがありました。それを破ったことがばれると、男のもとに新造や若い衆が押しかけ、馴染の遊女の前に連れてきて詫びさせ、さらに詫び金をむしり取り、髪を切りました。裸にして女の襦袢を着せて笑いものにすることもありました。

4.最後に

支払いの時にお金がない場合には客の上から風呂桶をかぶせて道端に晒し、親族や友人が弁償するまでそのままにされ食事はご飯一椀に塩をふりかけたものだけで便所にも行かせてもらえませんでした。五、六日そのままにされることもあったそうです。しかしこの桶伏せは新吉原の初期までで、それ以降は薄暗い行灯部屋に閉じ込められました。

吉原は歌舞伎と共に江戸を代表する文化であり、その長い歴史の中でたくさんの興味深いシステムが出来上がっていきました。遊女達は江戸のファッションリーダーの役割も担い、華やかな存在で浮世絵などにもたくさん描かれていますが、実際は、遊女達は自分から遊女になったのではなく、身売りという形で貧しい親から遊女屋に売り渡された女性達でした。こうして借金を背負った遊女達はその借金を返し終わるまで「苦界十年」と言われる厳しい苦労を重ねたのでした。次回はそんな遊女達の生活に触れたいと思います。

【参考文献】

江戸の色町 遊女と吉原の歴史    安藤優一郎

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