前回、時代劇コラムで「たそがれ清兵衛」を紹介しましたが、映画の中で清兵衛は亡くなった妻の葬式代がなく刀を売ってなんとか捻出したり、母親と子供たちと共に内職、畑仕事をしながら貧しい生活を送っていましたが、清兵衛のような下級武士の家計は実際のところそんなに貧乏だったのでしょうか。
調べてみると、江戸時代において下級武士はみんなアルバイトをしながら生活していたのです。
目次
1.下級武士の貧乏事情
2.武士は休日ばかり
3.武士のアルバイト
4.出世したくない武士達
5.江戸時代の短期アルバイト
6.最後に
1.下級武士の貧乏事情
下級武士とひと言に言ってもその給料は家格によっても様々ですが、御家人クラスの武士達は、先祖代々裕福であったりという例外を除いて総じて苦しい生活であったようです。
しかしそれでも、武家としての格式を保つための儀礼や生活習慣、贈答などにかける経費は必要経費として維持し続けなければなりませんでした。
給料が少なくても家来を雇い、子供の元服といった通過儀礼を欠かさないなど、メンツを守り続けたのです。
これは武士達ばかりでなく、藩そのものまでもが武家としてのメンツを保ち続けることが優先され、財政難に陥っていました。
例えば参勤交代制度でも、大人数の大名行列が江戸入りすると宿場は疲弊し、物価は高騰するため、幕府が行列人数の削減の法令を出したにも関わらず諸藩は従わず、行列で家の格を見せつける方を選び、結果その莫大な費用を自らこうむりました。
また、参勤交代で江戸勤務になっても武士達は特別手当ももらえないので、国許(くにもと)の家族と二重生活になってしまい、生活はさらに苦しくなりました。財政難に対し有効な手だてのない藩では、減俸を行って家臣にしわ寄せしたりということもあったようです。
2.武士は休日ばかり
江戸時代の武士といえば、毎日休みなく朝から晩まで主君のために働いていたイメージがあると思いますが、実は江戸時代の武士は休んでばかりだったのです。
江戸城の警備や護衛を務める御家人達は、「三日勤め」といって、一日働
いたら2日休むのが基本でした。しかも当番の日も、朝番、夕番、不寝番の交代制です。朝番などは午前7時から午前10時までの勤務でした。事務職であっても2日働けば1日休みです。
休日が多いのは諸藩でも同じで、紀州藩のある武士の記録によると当番は多い月で13日、少ない月ではなんとゼロ日。さらに当番の日も半日の勤務だったようです。
こんなに休みが多くて、休みの日は何をしていたのでしょうか。
裕福な上級武士達は皆このあり余る休日を有効に過ごしていました。武芸を磨く者、塾に通って学問に励む者、趣味に没頭する者。地方から江戸詰めになった場合には、寄席や落語、吉原で遊んだりと江戸の生活を満喫していたようです。
しかし下級武士達はそうはいきません。休みだからと遊ぶ余裕などはなく、大半の下級武士はアルバイトで大忙しだったのです。
3.武士のアルバイト
お金のない下級武士達は有り余る休日を使ってどのようなアルバイトをしていたのでしょうか。
江戸時代の御家人の主なアルバイトは、寺子屋の講師、傘張り、行灯の絵付け、小鳥の繁殖、金魚や鈴虫の繁殖などがあげられます。
映画「たそがれ清兵衛」の清兵衛は家の中で虫カゴ作りをしていましたが、武士が路上に立って直接商売することは出来ないので、家の中で出来る内職を中心にやっていました。中には、武士のアルバイトがきっかけで江戸の名物になったものもあります。
御徒町に住む御家人達は朝顔の栽培をしていましたが、これが人気になり、江戸時代は2度朝顔ブームが巻き起こりました。
現在でも続く「入谷の朝顔市」はこれが起源になっています。
他にも、芸達者な武士は、旗本の宴会で三味線や役者のモノマネを披露しておひねりをもらう者もいたそうです。
下級武士達はこのようにアルバイトで商売に励み、明治に入って武士でなくなっても上手に商売をしていたようです。
では、上級武士の旗本達がお金に困った場合はどうであったのかといえば、旗本達の間では、親族が亡くなっても役所に届けず、他の親族が給料をもらい続けたという、現代の年金の不正受給のようなことが横行していました。
しかしそれを厳しく取り締まると生活出来なくなる武士が出てくるので、幕府は黙認していました。
商売のやり方が下手であるたとえで「武士の商売」という言葉がありますが、これは明治に入って商売に失敗していた旗本達を指した言葉であるようです。
4.出世はしたくない武士達
休日をアルバイトに費やし、なんとか生活していた下級武士達。出世すればアルバイトなんかしなくても大丈夫!と思いきや、そうではありませんでした。
むしろ下手に出世してしまうとさらに生活が苦しくなってしまうのです。
優秀だと抜擢され出世をしても、給料は増えず役職手当が少しだけもらえるだけでした。
しかも、出世するとその役職に応じた体裁を保たなければならず、交際費はかさむし、家来も増やしてその給料代もかかり、前より出費が多くなりました。
そこでどうしたのかというと、賄賂を受け取ることでなんとか生活していました。
賄賂というと悪いイメージがありますが、江戸時代において賄賂をもらうことは決して後ろめたいことではなく、むしろ出世した者に給料を払えない幕府はせっせと賄賂を受け取り足りないお金を補ってもらった方がありがたかったのです。
しかし仕事をせずにあまりに賄賂を受け取ることばかりに精を出してしまったので八代将軍・吉宗は、重要な役職に対しては任期中役職手当を多くするという改革をしましたが、今度は仕事そっちのけで自分の地位を守ることに躍起になってしまったそうです。
やはり武士は、下手に出世せずにアルバイトをしていた方が安定していたようです。
5.江戸時代の短期アルバイト
武士のアルバイトではありませんが、江戸時代にも、現在でいう人材派遣会社のような商売がありました。
これが「口入屋(くちいれや)」です。
口入屋は武家からの求人を受けることが一般的でした。武士は、家格によって足軽や中間といった武家奉公人を雇い屋敷に居させることが義務でした。
しかし彼らを雇い続けているのが経済的に苦しいので、口入屋に頼んで必要な時だけ安い奉公人を呼んだのです。
口入屋は注文に応じた人数を揃えて武家に送り、武家と奉公人両者から紹介料をもらいました。藩が家の格を見せつける目的で、参勤交代に参列するというアルバイトもあったようです。
口入屋は、身元のない者には身元保証人となり仕事を紹介していました。
奉公人の給料は前払い制でしたが、奉公人は素行の良くない者も多く、契約期間が済まないうちに逃亡してしまう者が後を絶たなかったようです。
この場合は口入屋が責任を取らなければなりませんでした。
やがて口入屋は、武家だけでなく商屋、職人、寺院、湯屋といったところにも奉公人を派遣するようになりました。
様々なところに必要な人材を提供する、まさに江戸の短期派遣アルバイトだったのです。
6.最後に
今回は下級武士達の貧乏事情を見てきましたが、調べていくと上級武士、諸藩までもが皆お金に困っていたことがわかってきました。
戦国時代であれば、戦で勝てばそれだけ敵の領地をもらい功績をあげた家臣に分け与えていましたが、戦のない江戸時代では決められた領地の中でやりくりして給料を支払わなければなりません。
しかしそれでも、例えお金がかかっても武家としてのメンツを守ることが最優先だったのですね。そして上級武士などは賄賂をもらったり亡くなった家族の給料を不正にもらったりということが起き、またそうされると都合のいい幕府もそれを黙認していたというのも歴史の事実として面白いところですね。
【参考文献】
1、江戸の大誤解 著者:水戸 計
2、藤沢周平の世界 著書:朝日新聞社