吉原で大いにモテた「通人」とは

今回紹介するのは江戸幕府公認の遊里・吉原で遊びの限りを尽くし、「粋」の美意識を作り出した「通人(つうじん)」についてです。

通人は当時流行りの着物やアイテムを身に付け、さらに教養あふれるその立ち振る舞いで吉原の遊女達を虜にしました。通人の考えはどこか西洋のダンディズムの概念と似ているところもありました。

目次

1. 通人とは
2.通人の着こなし
3.おしゃれなだけではダメ!真の通人とは
4.半可通と洒落本
5.遊郭でモテた人達
6. 通人の見本は歌舞伎の助六
7. 最後に

1.通人とは

通人とは、1764-71の明和年間あたりから出現した人たちで、当時大儲けしていた蔵前の札差たちが文芸、芸術、食道楽などで遊びの限りを尽くし、「粋」「つう」の美意識を作り出しました。

「通」とは、人情の機微に通じているといった意味で、その後遊郭や芝居小屋などの遊びの分野での知識と経験に長けていている人々を指すようになりました。さらに細かく分けると、人情の機微に通じることを「訳知り」、遊郭などの遊びに精通することを「穴知り」といい、この二つを持ち合わせている人こそが「通人」です。

そして、訳知り、穴知りどちらか一方しか持ち合わせていなかったり、お金も教養も持っていないのに通人のふりをして知ったかぶりをして気取ってふるまう人たちを「半可通」、さらにひどい人を「野暮」と呼びました。

2.通人の着こなし

通人が好んだ色は、華やかな色ではなく地味めな色でした。江戸初期の遊郭、島原で好まれていた色は、小袖は無地の黒を最上とし、次は茶色。帯も羽織もやはり黒と茶がよしとされ、この2色は「人を嫌はず、歳をきらはざれば、男服の至極の色」と言われていました。黒といっても藍を下染めして墨をかけた藍下黒(あいしたぐろ)、紅を下染めした黒紅など、深みのある黒が好まれました。茶色は鼠色と共に「四十八茶百鼠」と呼ばれるほどにバリエーションが豊かで、1966年の「紺屋茶染め口伝書(こうやちゃぞめくでんしょ)」には18色の茶系の染め方が記されており、この頃から茶色が流行り始めたと思われます。江戸後期には鼠色も好まれるようになります。

江戸では過剰なファッションは嫌われ、何でも少なめがよしとされました。模様より縞、そして無地。色も地味目で基本的に黒づくし。しかしよく見ると素材にこだわっているのが通。羽織が羽二重(はぶたえ)で下が縮緬(ちりめん)、中は紬(つむぎ)という具合に素材を分け、触られてみて初めて高級な素材だと気づかれるような、パッと見ただけでは分からないおしゃれがカッコよかったのです。

18世紀~19世紀初めにかけてイギリス社交界の花形となったジョージ・ブライアン・ブランメルは、「誰も気づかず振り向かないのが紳士の服装である」と説きダンディズムという概念の起源となりましたが、白と黒を基調にしたシンプルな服装をシックに着こなしましたが、英国で誕生したダンディズムと江戸時代の通人は似ているところがたくさんあるようです。

3.おしゃれなだけではダメ!真の通人とは

通人として持ち合わせなければならない「粋」とは服装に限ったことではありません。「粋」な態度とは、例えば遊郭で遊女が隠していることがあってそれをたまたま知ってしまったとしてもそれを知らないふりをする。もしなじみの遊女に不実があったとしてもそれをとやかく言わずにスパッと別れる。なじみの遊女にはまず自分が誠実に対応し、遊女の誠実を得ることなど、人情の機微に通じているだけではなく、トラブルやゴタゴタがあってもそれを静かにやり過ごすこと。これこそが真の通人であると言われました。

遊郭などの遊びのことに詳しい人を「穴知り」と言いますが、「訳知り」とはそれらを知ったうえでどんな状況でも静かにさばく大人な対応が出来る人のことで、「訳知り」になって初めて通人になれるということで、穴知りになるのは簡単でも訳知りになることは難しかったという訳ですね。なんだか現代で言う、皆から尊敬されるダンディな上司…といった感じですね。

4.半可通と洒落本

洒落本(しゃれぼん)は1770年頃の明和期頃より評判となった本で、遊郭を舞台にし、通人になりきれない半可通や野暮を滑稽に書き笑い飛ばしながら当時の通人の美意識を描いています。有名な作品に、「当世風俗通(とうせいふうぞくつう)」という本がありますが、これは息子の姿を借りながら、「極上乃息子風」から「下乃息子風(げのむすこふう)」までの4ランクの髪型、衣服や印籠、巾着、扇子の持ち物に至るまで詳細に書いてあり、江戸の遊郭における通人達のスタイルブックでした。

半可通がどのように笑いものに描かれていたかといえば、半可通を題材にした落語の「酢豆腐」がわかりやすいでしょう。

この落語は、嫌われ者の若旦那に、町内の若い衆が日頃の仕返しに腐った豆腐を食べさせる話で、「舶来物の珍味らしいんだが、若旦那ならご存じでしょう。」とおだてて、腐った豆腐を見せる。若旦那は知らないとも言えず、「これは酢豆腐でげしょう。」と答えて鼻をおさえながら目をつぶってやっとの思いで一口食べる。「もっと食べたらどうです。」と若い衆が言うと、「酢豆腐は一口に限る」というオチで終わる。若い衆はもちろんそれが腐った豆腐だと知っているわけですが、若旦那は普段から通人ぶって知ったかぶりをしているので知らないと言えず「酢豆腐だ」と言って食べるはめになります。半可通はこんな風に「通人ぶって知ったかぶりをする口先だけの男」として書かれ洒落本で笑いものにされました。もちろんこういう人は遊郭でもすぐに見破られ嫌われたそうですが、皆さんの周りにこういう人はいますでしょうか…。

5.遊郭でモテた人達

・若旦那

 若旦那とは繁盛している商屋の息子で、お金もたくさん持っていて、さらに若くて純情だったために大いにモテました。しかし通いすぎて借金を作り親に叱られることもしばしばあったようです。

・文人学者

幅広い学問を身に付けている人を江戸時代は文人学者と呼びましたが、文人学者は教養がありお金をたくさん持っていているので妓楼は文人学者のお得意様を欲しがり、文人学者達に楽しんでもらえるように遊女達にも知識と教養を身に付けさせました。遊郭は文人学者達の集いの場でもあったようです。

・留守居役の武士

江戸幕府の留守居役(るすいやく)の武士は地方の藩において外交を務める武士達と交渉などを行う接待を主に遊郭で行っていました。そのためその交際費としてお金をたくさん持っており、さらに派手に遊んでいくためモテました。他に遊郭で遊ぶ武士といえば参勤交代で地方の藩からやってきた勤番武士ですが、こちらはお金を持っていないうえに態度もでかいので嫌われていたそうです。

6.通人の見本は歌舞伎の助六

助六劇は元来大阪で起こった心中事件を脚色して上方で上演されていましたが、これを二代目団十郎が江戸向きに変えて人気を得ました。1751年~64年の宝暦頃より上演の回数が増え、1764~89年の天明期には三月の上演が慣例となりました。

助六劇は、鎌倉時代の武士・曾我五郎(そがのごろう)が親の仇を討つために任侠の助六に身をやつし、吉原の遊女揚巻のもとへ通い仇討ちの機会を狙います。源氏の宝刀友切丸を探すため助六は吉原の客に喧嘩を売って刀を抜かせ、やがて揚巻に横恋慕している意休という武士が友切丸を盗んだ平家の残党だとわかり、意休を倒します。

弱いものを助け武士と言う権力に立ち向かい、啖呵を切りながら喧嘩にはめっぽう強い助六の姿に江戸っ子達は夢中になりました。その衣装は黒羽二重の小袖、紅絹(もみ)の裏地、江戸紫縮緬の右結びの鉢巻、黄色い足袋。さめざやの一刀を腰に差し、衣装の背中には尺八、そして手に蛇の目傘というスタイルで、この衣装と助六の振る舞いは粋な伊達男の象徴となり通人達の手本となりました。

7.最後に

今回は江戸のモテ男達である通人について紹介いたしました。江戸の男達も女性にモテるためにおしゃれをして教養を身に付け頑張っていたのですね。調べていて、モテる秘訣が書いてあるファッション誌を見ているようでした。おしゃれなだけではなく女性や周りの人に対してどっしり構え懐が深い大人の振る舞いが出来る人が真の通人でありモテたわけですね。私も是非参考にさせて頂きます。

調べていくうちに吉原遊郭を利用するシステムやルールも出てきましたが、利用客がなじみの遊女があるのに他のお店に行った場合のお仕置きなどもあったりして面白いです。またコラムで紹介しますのでお楽しみに!

【参考文献】

江戸のダンディズム    河上繁樹

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