『用心棒』【時代劇映画コラム】

目次

1.「用心棒」の作品情報
1-1.作品
1-2.「用心棒」のあらすじ
1-3.黒澤明監督

2.「用心棒」の殺陣と世界のミフネ
2-1.世界のミフネ
2-2.ミフネの宿敵・仲代達矢

3.最後に


1.「用心棒」の作品情報

1-1.作品

時代劇映画の金字塔としてあまりにも有名な作品。黒澤明監督が“観客が喜ぶ作品”に徹して作った痛快娯楽時代劇。原作はダシール・ハメットのハードボイルド小説「血の収穫」で、物語を江戸時代の宿場に移し替えた。

それまでの殺陣といえば東映、大映などの“舞踊のような美しい立ち廻り”が本領でしたが、この作品で“本式の立ち廻り”を意識した合理的なリアリズムの殺陣を作り上げます。それは三船敏郎の卓越した運動能力と迫力も相まって観客の度肝を抜き、翌年公開の続編「椿三十郎」の殺陣と合わせて、業界に「三十郎ショック」と後に称されるほどの衝撃を与えました。

三船敏郎はこの作品でヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞。「世界のミフネ」の名を不動のものにしました。

1-2.「用心棒」のあらすじ

二大勢力の縄張り争いに明け暮れ、すっかり荒れ果ててしまった宿場町。そこへ流れてきた桑畑三十郎(三船敏郎)と名乗る凄腕の浪人は清兵衛親分(河津清三郎)の用心棒になるが、女房(山田五十鈴)の強つく張りに嫌気をさし、敵対するもう片方の丑寅(山茶花究)を訪ねる。丑寅には短銃を使う弟(仲代達矢)がいた。結局、両派を煙に巻き、同士討ちを企てるが…。

1-3. 黒澤明監督

戦後の日本映画を牽引した「世界のクロサワ」。

1936年に現在の東宝に入社。山本嘉次郎監督をはじめとする名だたる監督達の助監督を務めながら脚本を書き続けました。やがて書いた脚本をコンクールに応募し入選。助監督として、脚本家としてその実力が認められるようになります。

1943年に「姿三四郎」で映画監督デビューし大ヒットを記録。そして、1950年に「羅生門」が世界三大映画祭のひとつであるヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。日本映画が海外に評価される皮切りとなりました。1954年には、世界中の映画監督に影響を与えることになる「七人の侍」が公開。

その後も、反核、社会派、サスペンス、時代劇と様々なジャンルの映画を撮り続けました。一切の妥協を許さないそのダイナミックな映像美は、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなどの世界的な映画監督から敬愛され続けています。

2. 「用心棒」の殺陣と世界のミフネ

2-1.「用心棒」の殺陣

「用心棒」で黒澤監督は、それまでの舞踏的立ち廻りとは違った“本式の立ち廻り”を実践し、殺陣に革命をもたらしました。

殺陣を担当したのは久世竜。日活京都で月形龍之介の専属殺陣師であった久世竜は、形式を重視した立ち廻りに反発し、リアリズム重視の殺陣を目指し東宝に移ります。

1958年公開の「隠し砦の三悪人」では役者としての出演でしたが、黒澤監督に、三船敏郎と藤田進の槍での一騎打ちの振り付けを任され好評を得ると「用心棒」で“本式の立ち廻り”を任されることになったのでした。

剣術指導では、香取神道流の達人・杉野嘉男が務めました。三十郎が剣の腕を見せるためならず者達にケンカを売り、買って出たならず者3人をあっという間に斬り伏せますが、ここでは香取神道流の「逆抜きの太刀」を披露しています。

リアリズムの殺陣を目指す黒澤監督、久世竜、そして香取流の達人が揃いましたが、「用心棒」の殺陣が成功した一番の要因は、このリアリズムの殺陣を見事に表現した三船敏郎の力であると言えるでしょう。

とにかくもの凄い迫力とスピードで観る者を圧倒し、誰が見ても「これなら人を斬れる」と思わせるものでした。それまでの時代劇ヒーローは、立ち廻りでその場からほとんど動かず向かって来る敵を華麗に斬る形式美の殺陣が基本だったので、三十郎のように土煙をあげて走り回り自分から斬りに行くような殺陣は珍しかったのです。

立ち廻りでは刀を実際に斬られ役の身体に当てており、その反動で次の相手を斬ります。そのため撮影後斬られ役の身体にはミミズ腫れがいくつも出来ていたそうです。

そして、そんな動きをして軽い竹光を使っていながら、刀が本物に見えるところにも目を見張ります。黒澤監督は現場に真剣を用意し、役者に触らせ、実際に腰に帯びさせ役者に刀を勉強させながら撮影しました。

今では当たり前であるズバッという斬撃の効果音もこの映画で初めて使われました。

何もかもが初の試みだった「用心棒」の殺陣は見事に時代劇の歴史を塗り替えました。

2-2.世界のミフネ

元祖国際俳優「世界のミフネ」こと三船敏郎は、元々カメラマン志望で東宝にやって来ましたが、定員が埋まってしまい急遽東宝ニューフェースという役者のオーディションを受けることになりました。1947年「銀嶺の果て」で映画デビュー。

オーディションの時から三船に目をつけていた黒澤明監督に「酔いどれ天使」の結核を患うヤクザ役に抜擢され、スクリーンに強烈な印象を残しました。そこから黒澤監督と三船の黄金コンビが始まり、そのコンビは16本目である1965年の「赤ひげ」まで続きました。

1962年には映画会社「三船プロダクション」を設立。映画の製作も行いました。

若手の頃から数々の時代劇に出演していましたが、黒澤映画のリアリズムの殺陣でその卓越した運動能力で殺陣の実力を開花させ、「用心棒」で頂点に達しました。

三十郎のキャラクターは三船の当たり役となり、その後数々の映画で“用心棒”を演じています。テレビ時代劇「荒野の素浪人」では“三十郎の3倍強い”というふれこみで峠九十郎という役を演じ、豪快な殺陣を披露しました。

私生活でも酒に酔っての強烈なエピソードを数々残していますが、撮影現場では周りへの気遣いを忘れない真面目な性格であったそうです。

黒澤監督は三船の死の際、「三船は、日本の映画界でそれまでに類のない才能であった。特に、表現力のスピードは抜群で、ずけずけした表現は秀でていた。そして繊細で細かい感性も合わせ持っていた。」と語っています。

2-3.ミフネの宿敵・仲代達矢

昭和、平成をまたにかけた名優、仲代達矢の存在も黒澤映画を盛り上げました。

仲代達矢もまた、日本映画黄金時代の時代劇スターの1人として数えられ、1962年の傑作時代劇「切腹」や黒澤監督の「影武者」「乱」など主演作品も多いです。三船敏郎との共演も多く、3作品で三船との一騎打ちを演じています。

「用心棒」では、丑寅一家の切れ者でピストル使いの卯之助を独特の不気味な存在感で演じ、三十郎を苦しめました。クライマックスでは、剣客ⅤSガンマンというような一騎打ちで、ここで三十郎がどうやって勝つかが映画の見どころの一つです。

黒澤映画の常連となった仲代達矢と黒澤監督との間には、こんなエピソードがあります。

仲代達矢が俳優座養成所に居た頃、「七人の侍」のエキストラとして出演しました。街中を歩く浪人の役でほんの数秒の出演でしたが、時代劇をやったことがなく、着物を着るのすら初めてだったため侍の歩き方が出来ず、黒澤監督から数時間ひたすらNGを出され続け周りからも罵られたそうです。それ以来「黒澤監督の映画は出ない!」と決めたそうですが、俳優として注目されると黒澤監督から「用心棒」の出演依頼が来たのでした。断っていましたが黒澤監督はあきらめず、最後は直接会わされ「うん」と言わされたそうです。

その後黒澤映画を支える俳優となった仲代達矢は、見事黒澤監督へのリベンジを果たしたのでした。

3.最後に

「用心棒」は言わずと知れた時代劇の金字塔であり、本当におすすめの作品です。

「白黒映画はちょっと…。」と思う人もいると思いますが、今観てもまったく色あせない面白さです。初見だという方を羨ましく思います…。

三船敏郎の“本式の立ち廻り”を観た当時の映画監督の中には「映画を作るのが嫌になった。」と言う人がいるほどの衝撃だったそうです。

この映画は殺陣がとにかく有名ですが、三十郎の、言葉の乱暴な凄腕の浪人だが実は困っている人を放っておけないという独特なキャラクターが面白く、かっこいいです。この三十郎のキャラクターがこの映画の面白さを際立たせています。

続編の「椿三十郎」ではさらに洗練された殺陣を見ることが出来ますので、三船敏郎の殺陣の魅力と合わせてまた紹介いたします。

【参考文献】

1、殺陣 チャンバラ映画史     著者:永田 哲郎

2、三船敏郎 さいごのサムライ   著書:毎日新聞社

3、仲代達矢が語る日本映画黄金時代 著者:春日 太一

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