前回は江戸の色町・吉原について紹介しましたが、今回はもう少し踏み込んだ、吉原で仕事をする遊女の生活について触れていきたいと思います。江戸の名物として観光スポットでもあった吉原で華やかにふるまう彼女達は、「苦界十年」と言われる過酷な生活をしていました。その十年またはそれ以上の年季を終えるまでは、吉原の外に出ることすら簡単にはいかなかったのです。
目次
1.遊女になるとは
1-1.遊女になるとは
1-2.遊女になるまでの道のり
1-3.遊女の社会的地位とは
1-4.年季と身請け
2.遊女の生活
2-1.遊女の一日
2-2.遊女の食事
2-3.遊女の休日
3.最後に
遊女になるとは
1-1.遊女になるとは
彼女達がなぜ遊女になったのかと言えば、そのほとんどが身売りという形で吉原にやってきたのです。人身売買は禁止されていたので、表向きは奉公という形を取り、貧しい親が給料の前借りと引き換えに娘を遊女屋に売り渡したので、実際は人身売買となっていました。
女性を遊女屋に斡旋する女衒(ぜげん)が仲介に入り、親族からの申し入れだけでなく諸国を回り貧しい農民の娘を探して親を口説き、娘には甘い言葉で遊女屋に連れて来たのです。女衒は「玉出し屋」「口入屋」「周旋屋」とも言いましたが、俗称では「人買い」と呼ばれました。庄司甚内は遊郭を開いて女衒を取り締まると言っていたのに、女衒は明治に入っても存在していました
農村の娘は、親がわずか3~5両のお金に困って売られてしまいました。現代の価値に直すと40万~100万円に満たない額です。農村だけでなく、裏長屋で生活に困っている者、立ち行かない商屋、さらに貧しい武家までもがせっぱつまって娘を売りに出しました。武士の娘が親を救うために自ら遊女になった記録がありますが、その前借金は18両で、武士の身分にもかかわらずわずか200万~250万で売られてしまいました。
これらの借金は彼女達の借金となりました。前借金が安くても膨大な利子をつけられて簡単には返せず、吉原での日常生活でかかる生活費は彼女達の持ち出しなので、年季10年を務めあげなければなりませんでした。
1-2.遊女になるまでの道のり
10歳未満で遊女屋に身売りされた幼い子供は「禿(かむろ)」と呼ばれました。頭髪を剃っていたためにこう呼ばれましたが、髪が伸びても禿でした。禿は台所の手伝いなど遊女屋の雑用をしながら、遊女になるための礼儀作法を教え込まれました。その後は高級遊女のお付きとなって教育を受けました。お付きの遊女のことを「姉女郎」と言い、禿の衣装代や食事代は姉女郎が払ってくれました。将来に見込みのある禿は「引っ込み禿」といい、遊女には付かず楼主から教育を受けました。
13~16歳になった禿は「新造(しんぞ)」という階級に上がります。新造になることを「新造出」といい、新造になる10日前から姉女郎の常連客からお歯黒をもらい、そば切りを別の遊女屋や引手茶屋にふるまいました。着物、反物も新調し、扇や手拭いなどの道具も用意しましたが、これらの費用はすべて姉女郎が負担しました。新造出の当日は、店の若い衆が先導して、新調した着物を着た新造を姉女郎が連れて仲の町を歩き、顔見世をしながら各所にあいさつ回りをしました。新造になり、「水揚げ」という初体験の儀式を終えると「突出し」となり、盛大なお披露目をして初めて客を取ります。ここからが10年の年季の始まりです。
新造には、振袖新造(ふりそでしんぞ)、留袖新造(とめそでしんぞ)、番頭新造(ばんとうしんぞ)があり、振袖新造は新造になったばかりで自分の部屋を持っていません。ただし有望な新造は持っている場合がありました。その後元服し、留袖新造となります。17~18歳くらいで、部屋持ちか座敷持ちです。新造のまま28歳になり、年季があけても行き場のない遊女が番頭新造になりました。番頭新造は高級遊女のマネージャーのようなことをし、番頭新造を経て遣手になる女性も多くいました。
1-3.遊女の社会的地位とは
女性達が遊郭に務めることを「廓勤め(くるわづとめ)」と言いましたが、庶民たちは、廓勤めが苦界十年と言われるほどとんでもなく苦しいものだと理解していました。彼女達がなりたくて男達の相手をする遊女になったのではなく、家族を救うために自らを犠牲にした親孝行者だという認識が一般的で、遊女に対する差別はほとんどありませんでした。そのため、元遊女だから妻にはしたくないという男性も少なかったのです。ここは、当時のヨーロッパの娼婦達とは全く違うところで、ヨーロッパの娼婦は差別されてしまい一般の家庭に入れなかったのに対し、年季を明けた元遊女が一般の家庭に入ることはよくあることで、むしろ吉原の出身で綺麗な奥さんだと羨ましがられることもあったそうです。
吉原に対する世間の認識として、当時男達が吉原に通うことは恥ずかしいことではなく、独身男性だけでなく妻のある男性も通うのが普通でした。多額の借金さえしなければ世間の目は寛容であり、素人の女性に手を出すくらいなら遊女と遊ぶほうが男らしいとさえ言われました。歌舞伎や浮世絵にも遊女が登場するように、遊女は世間の身近な存在であり、そのファッションを見に女性も吉原に来ましたし、春の花見の季節や祭りになると子供連れも多く来ました。
吉原は江戸の大きな名所のひとつであり、地方の人にとっては観光名所だったのです。
1-4.年季と身請け
吉原の遊女には年季があり、「年季十年、二十七歳まで」というのが原則でした。しかし、生活費や行事で新たな借金を背負うことも多く、年季が過ぎても吉原に残り、切見世などで働く遊女もいました。また、年季十年は働きだしてからなので、子供の頃から禿(かむろ)として吉原にいる場合は10年以上の長い月日を過ごさなければならなかったのです。
年季が明ける前に吉原を出る方法があります。それが身請けです。身請けとは、客が遊女の年季証文を買い取って身柄を引き取ることで、莫大なお金がかかります。位の高い遊女ほど高くなります。記録によると、1700年に身請けされた三浦屋の薄雲という遊女は350両(大体3500万円くらい)。1775年に高利貸しの男に身請けされた松葉屋の瀬川という遊女はなんと1400両(大体1億4千万円)でした。
2.遊女の生活
2-1.遊女の一日
遊女の一日は長い…。朝は、昨夜共寝をした客を見送る「後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)」から始まります。午前6時前には茶屋の奉公人が迎えに来るなどして客を起こします。客の支度を手伝い、遊女屋の二階の階段のところまで、または階段の下まで、もしくは大門まで見送りましたが、ここでいかに名残惜しく別れるのかがミソでした。客を見送ると二度寝をします。朝10時にみんな起きだし、遊女屋の一日が始まります。
正午までは自由時間でしたが、この間に身支度をします。朝風呂に入り、髪結いまたはお付きの新造に髪を整えてもらい、食事も済ませます。正午になると吉原の営業が始まります。午後4時までが昼の営業「昼見世」です。高級遊女を除いた遊女達は通りに面した格子越しに客が品定めをする「張見世」に出ます。昼見世の客は地方から江戸に来ている諸藩の勤番武士が多く、彼らは門限が午後6時頃までで夜遊びが出来ないために昼に遊びに来ました。しかし勤番武士はお金がないので祝儀をくれないくせに威張って要求が多いので遊女からは嫌われました。基本的に昼見世は客が少なく、張見世の遊女達ものんびりしていて、客がつかなければ遊女達で双六や花札を楽しんだり、文を書いたりしました。昼見世には祝儀をくれる上客が来ないので、客がついても遊女達は淡白でした。昼見世が終わると、遊女達は昼食をとって自由時間となります。遊女屋に来る小間物屋、呉服屋、貸本屋といった行商人の相手をし、夜見世に備えて身だしなみを整えました。
午後6時頃になると夜見世の始まりの合図である「おふれ」と呼ばれる、遊女屋の縁起棚にある鈴が鳴らされます。それと同時に、各遊女屋で「清掻(すががき)」の演奏が始まります。清掻は、三味線によるお囃子で、芸者や振袖新造が担当しました。遊女屋それぞれ違う演奏で、吉原の町を一斉に賑わせます。男達は一斉に張見世に向かいます。張見世には灯が灯され、遊女達を妖艶に照らしました。客がついた遊女屋は二階の座敷で客と対面し言葉を交わしますが、すぐに一階に戻り、張見世に戻ります。他の客の指名も取るためで、同じ時間帯に複数の客の相手をしなければならないので、客は二階の廻し部屋で待たされました。待ちくたびれて怒り出す客も多く、遊女本人だけでなく振袖新造や店の若い衆が上手く場をつなぎました。
午前0時頃「中引け」となり、遊女屋の表戸が閉められるのでそれ以降の客は取りません。午前2時頃を知らせる拍子木で「大引け」となり、それまで宴会をしていた客も遊女も皆床につき、吉原の営業は終了します。しかし、床入り後の接待は続きます。また翌朝後朝の別れまで遊女の仕事は終わりません。
2-2.遊女の食事
遊女達の衣食住は遊女屋に保証されていました。しかし保証されている食事は一汁一菜の質素なもので、一膳のご飯におかずは煮物につけもの程度といった具合でした。これは楼主からの「美味しいものを食べたければ客からとれ」という、いかに遊女達の食事を安く済ませるかの経費削減からでした。下級遊女達は一階の大広間にてご飯を食べました。
その言葉通り、お金持ちの客を持っている高級遊女であればその食事は充実していました。日々の食事も二階の自室に運ばして象牙の箸で食べ、客から祝儀をたくさんもらっている遊女であれば台屋(遊女屋の台所)から好きな出前を取れました。夜の宴会でも客が頼んだ料理が豪勢に並べられます。気の利いた客は、翌朝の遊女の朝風呂を待って、禿や新造を引き連れて仲の町の茶屋で湯豆腐や朝粥をご馳走して帰ったといいます。
泊り明けに食事を共にしたり、帰りに祝儀をくれる客を多く持っている遊女は三食すべて客持ちで充実した食生活でした。
2-3.遊女の休日
遊女がもらえる休日は正月と盆(7月13日)の、年に二回しかありませんでした。しかも、せっかくの休日でもよほどのことがなければ自由に大門を出ることは出来ませんでした。出ることが出来る場合でも、申請して「切手」という大門を出る通行証をもらい、さらにその外出時には遣手や若い衆が付き添わなければなりませんでした。
年二回の休みだけで働き続けることは出来ないので、「身揚り(みあがり)」と言って自分で自分の揚代を支払い休日をもらいました。自分の時間をお金で買うわけですね。客からご祝儀をたくさんもらっている遊女ならいいですがそうでない遊女がそれをしてしまうと借金がまた増え、年季明けが遠のいてしまうのです。
自分の時間を買ってつくった休日ですが、吉原では自分の情夫(いろ)に会うのが粋とされました。遊女が心底惚れている男が情夫ですが、情夫を生きがいに暮らす遊女は多かったのです。しかし遊女が情夫に会いに行くと、後に逃亡や心中する可能性があるため、楼主はいい顔をしませんでした。あとは、親が会いに来る場合がありましたが、これは娘に金の無心であることが多かったそうです。また、客がつかない遊女は楼主に無理やり身揚りさせられることもありました。
3.最後に
いかがだったでしょうか。遊女達の生活は考えていたよりもずっと過酷で辛いものでした…。ここに紹介しただけでも相当なものですが、ここには書くのをためらうような内容もあります。例えば、遊女達の病気事情。こんな生活をしていて身体を壊さないわけがありませんよね。病気になっても売れっ子の遊女でなければ医者すら呼んでもらえず、療養させてもらえません。療養させてもらっても費用はもちろん遊女持ちなど、遊女はただでさえ借金を背負っているのにまた借金を重ね、年季は遠のいていきました。華やかな江戸の名物であった彼女達の生活の実態は壮絶なものですが、それを乗り越え年季を明けた遊女を、世間は暖かく向かい入れました。
【参考文献】
江戸の色町 遊女と吉原の歴史 安藤優一郎