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女武芸者は実在したのか

歴史コラム

昨今、殺陣を始める女性が確実に増えていると感じます。殺陣教室サムライブにも、殺陣をやってみたいと体験を受け、入会する女性がたくさんいらっしゃいます。そんな女性達の中で、「歴史上で、女性の侍は居たのか?」と疑問を抱く方はいらっしゃるのではないでしょうか。時代劇、アニメなどでも女性の剣士がたくさん登場しますが、歴史上ではどうだったのでしょうか。

実は、歴史上でも女性剣士がたくさん居たのです。

いくつか紹介していきます。

目次

. 巴御前
. 常山城の女軍
. 女浪人・佐々木累
. 別式女(べっしきめ)
5. 幕末の女剣士・中沢琴
まとめ

1.巴御前

女性の武者といえば、まず最初に挙げられるのが、能や歌舞伎でおなじみの巴御前ではないだろうか。

平安時代末期の武将、木曾義仲の側室として、さらに武将としても仕えていた巴御前は、武芸に優れた女性で、「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美女でした。
戦場での巴御前は、華やかな甲冑を身にまとい、弓矢で次々に敵を射抜き、さらに馬上から薙刀で敵をなぎ倒しました。

巴御前の有名な伝説は、平家物語の「木曾最後」に書かれています。
宇治川の戦いに敗れた義仲軍は逃れますが、味方が残り5騎になるまで追い詰められます。その中に巴御前もいて、義仲は巴御前に、「女のお前は逃げろ。」と巴御前を落ち延びさせようとします。拒んでいた巴御前でしたが、ついに折れ、「最後の奉公でございます。」と、現れた敵の武者で勇将として知られていた内田三郎家吉と馬上での組み打ちの一騎打ちをします。組み打ちとは取っ組み合いをして相手を押さえつけその首を取る勝負ですが、巴御前は馬上での組み打ち勝負が得意で、この時、内田に髪の毛をつかまれ、引き倒そうとされますが、内田の首筋を馬の鞍に押し付け、その首を手早く掻き斬ったのです。手でねじ取ったという言い伝えもあります。凄まじい強さですね。

2.常山城の女軍

戦国時代末期、戦国大名の三村氏の姻戚であった上野氏が築いたとされる常山城が、毛利氏の攻撃により落城しようとしていました。

三村家最後の砦となった常山城も兵が100人に満たない程までに減り、敗北は目前。
ついには退路も断たれてしまい、常山城主、上野隆徳とその一族はもはや自決を決め、宴を開き、やがて次々と自害していく中、隆徳の妻で、武芸に通じていた鶴姫は、甲冑を身に纏い、「敵一人討たずに、おめおめと自害するを口惜しいと思わぬか。我らは女性なれども、気概は武者に劣らず。この鶴に続け。」と侍女達に言いました。
その言葉を聞いた侍女達は皆勇んで甲冑を身に付け、たちまち三十余名の女武者軍が出来上がり、敵に討って出たのです。
思わぬ奇襲に驚き、相手が女性であることに躊躇もあり、乱れた毛利軍でしたが、やはり多勢に無勢。奮闘した女武者軍でしたが、ことごとく討たれてしまい、鶴姫も城内に戻り自害したのでした。

現在、常山城跡にはこの女性達の墓標が並び、「常山女軍の戦い」として今に伝わっています。

3. 女浪人・佐々木累

江戸時代、四代将軍・徳川家綱の時代。

佐々木累(ささき・るい)という女性がおりました。その父親は古河藩に仕えていた剣術家の佐々木武太夫で、幼き頃より、この父に武芸の奥義を仕込まれて育った女性の剣術家です。

婿がとれず、父の武太夫も病死してしまった佐々木家は断絶してしまい、累は浪人となったのでした。女性が浪人になるとは、驚きですね。
江戸に出てきた累は、浅草に「武道諸芸指南所」という道場を開き、剣術指南を始めたのでした。
この佐々木累の外出姿は、小袖に黒ちりめんの羽織姿、髪を頭巾に隠し、細身に大小を帯び、素足に草履をはいていました。大小とは刀の事で、武士と同じように大刀、脇差しだったということです。
この姿は、異装であるとして周りの注目を浴びていましたが、武芸に通じている累に手出しをするものは誰もいませんでした。

ある時累は奉行所に呼ばれ、男装していることを咎められますが、累は、「いずれ自分より強い者を夫に迎えて佐々木家を再興いたしたく存じ、男装して武芸を教えているのです。」と答え、それを聞いた奉行所が古河藩主にそのことを伝えたことで、累は古河藩屈指の武芸の達人を婿に迎え、見事に佐々木家を再興させたのでした。

佐々木累は、池波正太郎原作で時代劇としても有名な、「剣客商売」に登場する女剣士、佐々木三冬のモデルでも知られています。

4.別式女(べっしきめ)

江戸時代の武家の女性は、武家の女性としてのたしなみとして、不測の事態が起こった時に自分の身や家族を護るため、または当主が討たれた時に敵討ちをする男子がいなかった場合には女性が敵討ちをしなければならない事もあり、日頃から薙刀をはじめとした武芸の稽古をしていました。

ところで、江戸時代の各藩の大名屋敷には、奥という、当主とその家族以外の男子は一切出入り禁止の、幕府の大奥のような場所がありました。
五代将軍・綱吉の時代の頃より、この奥の警護にあたった別式女という女性達がいました。藩によって役職名は様々で、剣帯役(けんたいやく)、刀腰婦(とうようふ)、刀持女(かたなもち)と、書いて字のごとく、刀を大小帯びていた女性です。
この別式女を召し抱えた大名家は二十余家あまりあったそうで、奥の警護だけでなく、武家の女性達への剣術指南役も兼ねていました。
その格好は、眉は剃り落として、引かずに青く跡が残り、着物は身の丈のものを着て裾を引きずらず、腰には大小を帯びている。といったものでした。
中には、町でならず者に襲われ、返り討ちにはしたものの、預かっていた書状をなくしてしまい、その場で切腹をしたという別式女もいたという言い伝えもあり、まさに武士の誇りを持った女性達だったのです。

5.幕末の女剣士・中沢琴 

幕末にも剣を振るった女性の侍がいました。中沢琴は、幼少期より父親に武芸を仕込まれ、法神流剣術、長刀、鎖鎌の達人だったそうです。
色白で面長の美人で、身長は170cmほどあったとされ、当時の平均身長をはるかに超えています。

文久3年、14代将軍・家茂の上洛の護衛として浪士隊の募集があり、琴は男装をしてこれに参加しました。浪士隊には他に、あとに新選組となる近藤勇、土方歳三、沖田総司も参加していました。
琴の男装姿は女性達に大変な評判で、琴に言い寄ってくる女性がたくさんいて困ったそうです。
さらに、女性の格好をしている時はたくさんの男性に言い寄られたとか。
その後、幕府の警備隊である新徴組が結成され、琴を含め多くの浪士隊がこれに加わりました。
中沢琴は新徴組として戊辰戦争などに参加し活躍しました。

戊辰戦争の後、琴は故郷に戻り、女性としての生活を送ります。琴に結婚を迫る男性が後を絶たなかったようですが、琴は「自分より強い男と結婚する」という条件を出します。
腕に覚えのある男達が琴に試合を申し出ましたが、琴にことごとく打ち負かされ、ついに琴は誰とも結婚することなく、生涯を独身で過ごしたのです。 

まとめ 

いかがでしょうか。ここで紹介した他にも、剣を振るって戦った女性がたくさんいます。

私自身、ここまで多くの女性の侍が存在していたこと驚いています。侍は男だけで、実在した女性の侍は、有名な巴御前ぐらいのもので、あとは時代劇やアニメにしか登場しないと思っていました。しかし、浪人になり道場を開いていた女性や、別式女のような、剣で身を立てている女性武芸者などのれっきとした女性の侍の存在があったのです。

 

【参考文献】

1、女甲冑録  著者: 東郷 隆

2、武家の生活 著者:三田村 鳶魚 

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