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葉隠から武士道を考える

歴史コラム

前回の記事では武士道とはどのような概念なのかを知るための導入として「葉隠」「武士道」の概要を見ていきました。今回からこの2つの本から「武士道」とはどのようなものなのかを具体的に見ていきたいと思います。

今回のコラムは「葉隠」の内容から武士道とは何か、侍だった山本常朝はどのような考えを持っていたのかを見ていきたいと思います。

 

目次

1.葉隠の構成

2.葉隠から武士道をみる

2-1.武士道とは死ぬこととみつけたりの意味

2-1-1.武士の誇りと死生観

2-2.武士は曲者

2-3.武士にとっての善と偽善

2-4.恥を知るということ

3.武士の生き方

まとめ

1.葉隠の構成

「武士道とは、死ぬことと見付けたり」の一文が有名な葉隠ですが、全11巻で構成されています。

1巻から3巻は山本常朝が経験した事を元に書かれており、武士の教訓について中心に書かれております。

4巻から5巻は山本常朝が所属していた鍋島藩の歴代藩主の出来事中心に書かれています。

6巻から9巻は山本常朝の住んでいた今でいう佐賀県での出来事中心に書かれています。

10巻は他の武家での出来事や噂が中心に書かれています。

11巻はこれまでの内容に属していない内容について書かれています。

全巻共通して言えるのは、全て山本常朝が筆者であり、インタビュアーでもある田代陣基に話したことをまとめているという点です。

葉隠が書かれたとされるのが、1716年頃とされているのでちょうど300年前に生きていた侍がどのような生活を送っていたか、どのような考えを持っていたかを知れるのは中々興味深く面白いかと思います。

 

2.葉隠から武士道をみる

ここからは葉隠の内容を見ていきたいと思います。

武士として生きた山本常朝が体験した事、聞いた事を中心に各エピソードを紹介して行きたいと思いますが、現代の私達が本書を読むと武士という生き物がどれだけ変わった生き物だったかが分かります。

内容を仕事の事や今の私達の日常的な事に置き換えてイメージしながら読んでみると、生きる上でのヒントが沢山隠されているかもしれません。

さっそく見ていきたいと思います。

 

2-1.武士道とは死ぬことと見つけたりの意味

一巻冒頭の一文であるこの文章ですが、その後に続く文も含め読みやすくすると「武士道とは死ぬことだと知った。死ぬか生きるか2つに1つの時は、死ねばよい。なにも考えることはない。」となります。

これだけ聞くと、武士は死にたがっている生き物のように聞こえてしまいますが、果たしてそうなのでしょうか。

武士は戦闘者であるので、死を恐れていてはどうしようもなく、嫌であろうとなかろうと死の縁に立つ武士が死の心配をしても仕方がないという常朝の悟りの1つなのではないでしょうか。

その後に、死ぬより生きる方がよいに決まっていると明言しているので、決して武士達は死にたがっていたわけではないようです。

 

2-1-1.武士の誇りと死生観

葉隠内で死生観について多く語られています。

「目的もとげられず、ただ生きのびたら、腰抜けだ。目的も遂げずに死んだら、犬死に、気違い沙汰である。が、恥にはならぬ。これが、武士道に生きる男のありようだ。」と常朝は言っていました。

その為にも、武士は常に死ぬ事を考え、常に「死に身」の状態になっていると死に対して恐怖を感じる事が無く武士としての務めを果たせるようになると常朝は考えていたそうです。

柳生流の極意にも「大剛に兵法なし」というものがあり、兵法の極意は死を恐れない事としていたそうです。

 

ここまで冒頭の一文を中心に見ていきましたが現在に生きる私達は当時の侍と比べ「死」は身近な物ではないので、想像しにくいと思われますが、これを「失敗」に置き換えてみると仕事の事などにも言える事ではないでしょうか。

 

 

2-2.武士は曲者

葉隠内で常朝は「武士は曲者であれ」と言っています。曲者というと怪しい人を想像してしまいますが、常朝はどのような人の事を曲者といっていたのでしょうか。

常朝のいう「曲者」は死を恐れない者で剛勇の者をさしていました。

文字通りの曲者の意味もあり、常朝の親も「博打を打ち、嘘をいえ。一丁歩むうち七度ほらを吹かねば、男でないぞ」と言っていたそうです。

実際に鍋島藩は盗みや密通をしていた者を許し、そこから少しずつ武士らしい武士へ育てていったそうです。葉隠内でも「そのくらいの者でなければ、物の用に立つ者にはなれない」といっています。

曲者に関して朝常は「こちらが調子のいい時は知らんふりをし、落ち目になり苦労しているとき、こっそりやってきて頼りになる、そのような人物が曲者である」

「曲者とは、死に際の優れた者」と葉隠内で言っています。

武士といえば忠義に尽くし、とても真面目なイメージがあるため、このような事が書いてあったのは少し意外だったかもしれませんね。

 

2-3.武士と善

武士の文化で追腹というものがあります。自分の仕える人が亡くなった際に後を追って切腹をするという文化です。君主が絶対だった武士にとっては違和感のない文化だったようです。

葉隠内でも追腹があった出来事に関して書かれています。

鍋島勝茂から曲者と褒められ、一掴みの銀を貰った大島外記は勝茂が亡くなった際にこのたった一度だけの出来事で追腹をした事や、鍋島茂賢が戦で殉死した際に茂賢と枕を並べ討ち死にを約束していた2名も約束を守って追腹を切った事などが書かれています。

中でも茂賢は殿様では無かった為、追腹に関して反対も多かったが命を惜しんで男の約束を破ることは出来ないといって腹を切ったそうです。

このようなエピソードを読むと武士が「善」として行っていることは、ただならぬ覚悟では出来ないので私達は侍の芯の強さに憧れるのかもしれませんね。

 

 

2-3-1.武士と偽善

このような武士が「善」として行っている事だけではなく武士は偽善者なのではないかと思ってしまうエピソードもあります。

中野丞之助という侍が隅田川で陰間若衆(男色を売る若衆)と船遊びをしている際に町人が乗り込んできて無礼を働いた為、その場で首を切り落としました。

船長にこの事をお金で口封じをし、死体を埋めさせた後その船長すらも殺した為、一切の騒ぎにもならなかったというエピソードがあります。

お家の為なら手段を択ばず、行動するのが正解だと常朝は言っているように書いてあります。

今の私達が見ると横暴極まりないと思いますが、君主が絶対だった当時はお家の為なら何をしてでも名誉を守る事が「善」だったのかもしれません。

 

2-4.恥を知るということ

日本人の国民性や文化に「恥」という考え方が影響しており、侍は「恥」に対してとても敏感だったと思われます。

侍は家の恥にならないよう、家名に傷をつけないように心掛け、もし自分の行いが元で家の恥になるようなことがあれば、死をもって償っていました。

自分が恥をかかなければよいのではなく、朝常は「その人の恥にならないようにしてよろしく取り計らうのが侍というものだ」と言っています。自分本位ではなく相手を思う事が大切なのですね。

「恥」をテーマに見ていくと葉隠内でこんなエピソードがあります。

遺恨が生じた2人の侍が果し合いをする。果し合いの際に遺恨の趣を問い詰めた所、果し合いをするまでの事では無く、二人は和解して帰ろうとしたが自分たちを覗き見している者に気付いた。ふたりはこうなっては後日悪名をこうむることになるので果し合いをした。

このエピソードは、なんとも切ない話ですが「恥」という事を知っていた侍だからこそ、こうするしかなかったのでしょうね。

また常朝は「60年ほどの前の武士は、毎日行水をし、月代(さかやき)を整え、怠りなく身なりを整えていた。それはいつ死んでも良いように必死の覚悟を持っていたからだ。死に身になりきって奉公も務め、武道も鍛錬していれば恥をかくこともない。」と言っています。

 

まとめ

今回は葉隠の内容を中心に紹介していきました。ここまで読んでお気付きかもしれませんが、葉隠は武士道とはこういうものだとストレートに書いてあるのではなく、侍としてこのような行動をするべき、侍同士でこんな出来事があった等の事が書いてある山本常朝の日記や回想記のようなものです。葉隠を読めばそこからは確かに武士道を感じる事ができるかと思います。

 

山本常朝にとっての武士道は有名な一文である「武士道とはしぬことと見つけたり」であって、侍は曲者であって死に対する恐怖をなくし、君主の為に尽くせばよいとしている。

それに付随して侍として必要な考え方や立ち振る舞い方、責任に対する向き合い方などが沢山書いてあります。

 

時代が違うので、話のスケールは違いますが今の私達が読んでも参考になる考え方や格言が沢山あり、子育ての方法や恋愛、酒の席に関して等江戸時代の常識を知る事もでき、少しでも興味があれば一度読んでみる事をお勧め致します。

ちなみに私の一番好きなエピソードは一巻にある「大役を仰せつけられて失敗するのではないかと心配して引き下がろうとするのは、逃げ腰の卑怯者である。その役を命ぜられて、事、志とちがって失敗しても、それは戦場での討ち死にと同じである。」です。

 

みなさんも一度、葉隠に触れてみて自分の武士道を見つけてみるのはいかがでしょうか。

次回は新渡戸稲造の武士道の内容をみていきたいとおもいます。

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