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江戸時代の身分と着付け

歴史コラム

現在街中で着物を歩いている人はたまに見かける程度で、私たちの生活と着物は距離のあるものになってしまっています。

2006年に行われたネット調査では着物を着たことのある女性は95%居るそうですが、自分で着付けを出来るひとは25%程度しか居ないそうです。
そんな着物ですが、少し前までは普段着として使われていました。着物といっても幅が広く普段着から正装、いろいろな種類があります。

今回は江戸時代に生きた人達がどのような着付けをし、どのようにオシャレをしていたか見ていきたいと思います。

 目次

1.江戸時代の儀礼服

1-1.将軍の正装 束帯 衣冠
1-2.大名 老中の衣装 直垂 狩衣
1-3.旗本の正装 大紋 布衣
1-4.武士の正装 長裃
1-5.一般階級の武士の正装

2.江戸時代の服装

2-1.着物と小袖
2-1-2.江戸時代の着物
2-2.江戸時代の帯の結び方
2-3.江戸時代の袴の種類

1.江戸時代の儀礼服

今、私達の正装は身分に関係無く、基本的にスーツが正装とされています。
しかし、江戸時代は鎖国をしており、海外の文化が入っていない状態で基本的には和服で生活をしていました。
今の私達にとって、和服と言われれば着物で着付けている姿という認識ですが、和服にも色々と種類がありました。
時代劇や絵などを見ると身分によって服装が違うので想像出来るかと思います。

当時の人達は「武家諸法度」で身分によって正装が決められており、服装や色で細かく分けられ、城内で出会ったら一目で身分が分かったそうです。

1-1.将軍の正装 束帯 衣冠

 

朝廷に対しての行事や神事の時は、将軍とはいえ正装で行事に参加していました。
その時の服装が「束帯」「衣冠」と呼ばれるものでした。

この画像が『束帯』です。時代劇などで見る機会はとても少ない服装ですが、昔の資料や絵などでは見たことがあるかと思われます。
ちなみにこの「束帯」「衣冠」は平安時代に公家文官が朝廷で勤務するときの服装でした。

日光東照宮や紅葉山の参拝などの神事などで実際に使用されていたそうです。

1-2.大名 老中の衣装 直垂 狩衣

 

先程紹介した朝廷に対しての行事、神事などの特別な行事以外の通常の儀式や行事では束帯や衣冠は使用せず、武家独自の服装を用いていました。

将軍や位の高い諸大名、老中は「直垂」(ひたたれ)と呼ばれる衣装を使用していました。あまり見たことがある人は居ないと思われますが、この画像が『直垂』です。

将軍は正月の賀儀や公家との対面、外国使節との謁見の時に直垂を使用していたそうです。
この直垂は絹製と決められており、武家が平安時代から着用してきた独自の服装で、武家の最上位の礼服だそうです。

老中、位の高い大名と高家(儀式や典礼を司る役職)は「狩衣」(かりぎぬ)と呼ばれる衣装を使用していました。

賀儀では老中は本来の身分に関係なく「直垂」ではなく「狩衣」を着用していたそうです。

1-3.旗本の正装 大紋 布衣

 

一般大名と旗本の礼服は「大紋」と呼ばれるものが使用されていました。特徴は大きな家紋が9つ有り、袴の腰紐は白と決められていました。画像が『大紋』となります。

位に関係なく、将軍にお目見え以上の旗本の礼服は「布衣」(ほい)と呼ばれるものが使用されていました。
見た目は「狩衣」と同じですが、こちらには一切模様の入っていない無紋でした。

1-4.武士の正装 長裃

 

これまでの礼服は写真を見ても何となく見たことあるようなものばかりだったと思います。

この「裃」(かみしも)と呼ばれる衣装は肖像画やTVなどで一度は見たことがあるものだと思います。
この礼服は五節句などの緩やかな行事の際に使用され、位が高いと「長裃」、位が低いと「半裃」と呼ばれる服装になります。

また、裃は武家の正装の為、いつでも戦場の心得を持ち質素に暮らす事と大切にしていたので生地は「麻」と決められていました。
裃の下に着るものは「熨斗目」(のしめ)と指定されておりました。

1-5.一般階級の武士の正装 普段着

江戸時代の後期の暮らしや衣装を紹介した書物に「守貞謾稿」というものがあります。

それによると江戸時代の平士、町人ともに服装を「礼・晴・略・褻(け)」に分類されており、当時のTPOが紹介されております。礼は礼服、晴は晴れ着、略は略服(よそ行き)、褻は普段着をさしています。
守貞謾稿によると一般武士や上層の町人は半裃が正装でした。それに準じるものが「定紋付染小袖」と呼ばれるもので、紋が入った着物で羽織もセットになって仕立てていたそうです。

また一般武士の普段着ですが、殿中でのお仕事の場合は「半裃」を着用し、普段着の時は「継裃」(上下がセットではなく、生地が上下で違う裃)を使用していました。

私的な時間を過ごす服装は「羽織に袴」か「小袖(着物)に袴」、「着流し」で過ごしていたそうです。

2.江戸時代の服装

和服と一言で言っても様々な服装があった事は前の項目で紹介いたしました。

和服を着る際に必要なものは沢山ありますが、その中でも重要な役割を占める着物、帯、袴について詳しく紹介していきたいと思います。

2-1.着物と小袖

現在私達が「着物」と呼んでいるものは、元々「小袖」と呼ばれるインナーでした。

平安時代では下着として使われており、現存する最古の小袖は岩手県の中尊寺金色堂に収められている、藤原基衝が着用していたとされるものです。

戦国時代に入ると、袖が小さくなり動きやすい小袖が表着として使用されるようになりました。お市の方肖像画なども小袖を着用している姿で描かれています。
このあたりから小袖が下着ではなく、上着となっていきました。
裃を着る場合でも、この小袖を表に見せる着方が通例となっていきました。

江戸時代に入ると袖の開きが大きいものを「大袖」と呼び、江戸時代の終わりの頃には小袖の柄が華美になっていき、小袖を巨大化させた「振袖」が誕生しました。

その中で「小袖」という言葉は使われなくなっていき、現在では束帯や十二単のインナーを指す言葉に変化していきました。

2-1-2.江戸時代の着物

現在私達が着物と認識しているものは、江戸時代後期に出来たものです。それ以前は現在の着物と大きく違い、身幅が現在1.5倍ほどあり、袖が短く肘がぎりぎり隠れる程度しかなかったそうです。
この着物(小袖)を締めていたのは、上流階級は8~12センチ幅の平帯で、庶民は縄で締めていたそうです。

2-2.江戸時代の帯の結び方

着物には帯が欠かせません。この帯にも種類が沢山ありました。

江戸時代後期に裕福層で流行したのは、博多帯と呼ばれる帯でした。この博多帯は大変高価で庶民では真田織や小倉木綿などの帯が流行していたそうです。

帯の結び方にも種類が沢山ありました。
男女共によく使われていた結び方は「カルタ結び」と呼ばれる、結ばずに織り込むだけの簡単な結び方でした。

江戸時代後期には「猫じゃらし」と呼ばれる細長い帯を使用した結び方が流行しました。
武士や貴人が使用していた結び方は「竪結び」と呼ばれる結び方で、見た目が下駄のように見えることから「駒下駄結び」とも呼ばれていました。

武士や庶民でよく使われていたのは「貝の口」と言われる、今でも主流な結び方です。
その他にも「神田結び」「三尺帯」「腹切帯」など様々な帯と結び方がありました。

2-3.江戸時代の袴の種類

袴の起源は古く、なんと「古事記」の頃からありました。袴にも種類は沢山あり、その人の身分や使用用途によって分けられていたそうです。

基本的に江戸時代は上下セットである裃が使用されていましたが、中期に入ると継裃と呼ばれる上下別の布で作るようになり、「肩衣」(裃の上)と「袴」が離れ、袴が独立し一般化していくようになります。

乗馬用の「馬乗袴」は武士特有の袴で、股が深く割れており、蝉型と言われる厚い板を入れ体をまっすぐに保つことが出来るようになっていました。
武士が旅や籠に乗る際に用いた「野袴」は一般的な袴(平袴)と同じですが、裾に縁布がついていました。

南蛮文化の影響を受けて作られた「裁付袴」(たつつけ)はズボンのような形をしている袴で、大工や左官、料理人などがこの袴を使用していました。

まとめ

和服といっても様々なものがありましたね。着物自体も現在私達が使用しているものは江戸時代後期から使われていたものだったようです。

時代をさかのぼれば、蹴鞠をするときの正装など、行事ごとに正装が分かれていたそうです。
行事ごとの服装がスーツ主流になってしまっているため、行事ごとに服装が分かれていたのは風情がありますね。

身分によって服装が決まっていたら、初めて会う相手にも失礼が無く対応できるので、厳密に服装が分かれていたのは礼儀作法や身分を大切にしていたからかもしれませんね。

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今回は座学的な内容がメインでしたので、次回は今回帯の結び方で紹介した結び方を詳しく紹介していきたいと思います。

 

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