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【刀剣秘話】妖刀村正とは何だったのか!

刀剣の知識・刀剣秘話

村正という刀の名前は聞いたことがあると思います。
実際にある刀で、ゲームなどではよく“妖刀”として出て来ますよね。

妖刀とは、妖気を帯びた刀のことを言います。
つまりはお化けに取り憑かれた刀とでも言いましょうか…。

妖刀妖刀とささやかれる村正ですが、なぜ妖刀と呼ばれるのでしょうか。今回はその謎に迫ります!

目次

1.妖刀村正とは
1-1.妖刀村正とは
1-2.徳川家に不吉をもたらす刀
2.村正の逸話
2-1.初代村正は正宗の弟子だった!?
2-2.真田幸村が所持していた?
2-3.村正は討幕の象徴に
3.村正は本当に妖刀だったのか!?
3-1.村正を持っている武士はたくさんいた!
3-2.家康は村正を嫌っていなかった!?

1.妖刀村正とは

1-1.妖刀村正とは

漫画やゲームでもムラマサという名の刀は度々出て来ますよね。
もちろん村正とは刀の名前なのですが、ただ一本の刀の名前という訳ではありません。

刀の名前とはすなわち刀工(とうこう・刀を作る職人、刀鍛冶)の名前です。

例えば村正だったら、「村正という名前の刀工が作った刀」ということなので、村正が作った刀は打刀でも脇差でも短刀でもすべて「村正」という名前です。

村正は1人だけではありません。
村正を襲名した刀工が6代まで続いたとされています。

銘を見てみると、「村正」としか彫られていない刀もあったり、「勢州桑名住村正」や「村正 妙法蓮華経」と彫られてあったりします。

さて、この村正は漫画やゲームでは「妖刀」として扱われています。
いつから村正が妖刀とされてきたか定かではないのですが、
1797年初演の歌舞伎「青楼詞合鏡」では村正が妖刀として登場しており、この頃には既に村正=妖刀と認識されていたようです。

なぜ、村正が妖刀とされたのか?それは、村正が「徳川家に不吉をもたらしてきた刀」と言われているからなのです。

1-2.徳川家に不吉をもたらす刀

村正が徳川家に不吉をもたらす刀と言われた理由は、将軍徳川家を三代に渡って祟ったとされているためです。

江戸幕府を立ち上げた初代将軍・徳川家康の祖父松平清康と父松平広忠は二人ともその家臣によって殺害されているのですが、
この時使われた刀はどちらも村正であったというのです。

そして、家康の嫡男信康は、謀反の疑いで切腹を命ぜられましたが、ここで使われたのも村正であるとされています。
家康自身も、村正が作った短刀と槍で2度ケガをしています。

これに家康は激怒し、「御当家三代有不吉之例」を出し、家臣らに対し村正の所持を禁止し、廃棄するよう命じました。

ちなみにこの時、所持していた村正の銘に少し彫り加えて「村忠」銘にしてしれっと所持していた人がいたそうで、その刀が現存しています。
高価な刀を、しかも愛刀を急に捨てろと言われたら困ってしまいますよね。

2.村正の逸話

2-1.初代村正は正宗の弟子だった!?

村正の逸話の一つに、村正は正宗の弟子だったというのがあります。

正宗と言えば、最も優れた刀工の1人で、現在残っている正宗の刀は、国宝が9振と重要文化財が10振指定されています。
千子村正(せんごむらまさ)こと初代村正は、その正宗の弟子だったと言うのです!

村正の有名なエピソードの一つにこんな話があります。

ある侍が村正と正宗を小川に刺してみたところ、流れて来た葉っぱが吸い寄せられるように村正に近づき、ことごとく真っ二つになった。
正宗の方には葉っぱは全く近づかなかったと言う話です。

事実、村正は美術的価値は劣るがよく斬れると武士の間では評判で、戦乱の世では正宗よりも、実戦的な村正が好まれました。

しかし、弟子であったことを事実とすれば、初代村正は、正宗の没年康永2年(1343年)には青年になっていなければならないのですが、
現存する最も古い村正は文亀元年(1501年)の銘を持つもので、時代が合わない為、この話は創作であると考えられています。

2-2.真田幸村が所持していた?

もう一つ、村正の有名な逸話が、
あの真田幸村が村正を持っていたというものです。

ゲームなどに登場する真田幸村は「妙法村正」という刀を持っていることが多いそうです。

これは、真田幸村が1615年の大阪夏の陣で、家康本陣に急襲をかけた時に逃げる家康に村正を投げつけたという逸話から来ています。

真田幸村が家康本陣に突撃し、家康が討ち死にを覚悟したことは有名ですが、村正を投げつけたとは本当なのでしょうか。

まず、この頃はまだ村正が徳川家の血を欲している妖刀だと世間に知れ渡っていないと思われます。

また、真田家伝来と伝わる刀剣類の中に村正がないことや、
地域的にも、村正の作られた桑名と、真田の里・信州や上州とは繋がりがない点、
そもそもこの逸話が書かれている「名将言行録」は幕末に書かれたものであるため、この逸話も創作の可能性が高いようです。

しかしこのような逸話の数々が、幕末に、討幕を目指す志士達に影響を及ぼしました。

2-3.村正は討幕の象徴に

村正には数々の逸話が残されましたが、その真偽は別として、各地で内乱が勃発した幕末において「徳川家を祟る妖刀」として徳川幕府を倒す討幕派の象徴となりました。

薩摩藩の西郷隆盛や、戊辰戦争で幕府を追い込む東征大総督となった有栖川宮熾仁親王が実際に所持し、それに習って志士達がこぞって村正を手に入れようとしました。

1867年12月9日、薩摩藩を中心とした討幕派と、徳川氏を中心とした連合政権の樹立を目指す土佐前藩主・山内容堂らとの間で主導権を握る激論が繰り広げられました。
小御所会議と呼ばれているものです。

当初、山内容堂の理詰めの弁論により討幕派は追い詰められましたが、
西郷隆盛が、
「こんな問題は簡単じゃ。短刀一本で事足りる。」
と言った途端空気が変わり状況が一変したと言います。

この時西郷隆盛は鉄扇仕込みの千子村正を肌身離さず持っていたとされ、西郷隆盛のこの言葉は、山内容堂らに徳川家を祟る村正を連想させたと考えられています。

村正はそれほどまでに徳川家にとって恐るべき存在となっていたのです。

3.村正は本当に妖刀だったのか!?

3-1.村正を持っている武士はたくさんいた!

「村正は本当に妖刀だったのか!?」
という疑問に対して、最も有力とされている説は、

戦国時代当時村正は実戦刀として人気で、持っている人がたくさんいたという説です。

つまり、徳川家康の親族が村正で斬られたり、切腹の介錯に村正が使われたとしても何の不思議もないということです。
なんだか拍子抜けしてしまいそうな説ですね。

村正が作られた桑名は伊勢神宮に近く、戦乱の世でも比較的平和な土地で、長らく刀鍛冶は現れませんでした。
戦国時代に入ると桑名には地方豪族が登場し、伊藤氏の東城、樋口氏の西城、矢部氏の三崎城が築かれ、桑名三城と呼ばれました。

その後桑名にも戦乱の波が押し寄せますが、そんな時に現れたのが、村正だったと言います。

一説によれば村正は元々農具鍛冶で、戦乱の世になって刀の需要を感じて刀鍛冶になったそうです。
村正の作る刀はよく斬れる上に大量生産されて安価で、三河の徳川氏をはじめ、桑名に近い東海・美濃の武将の間には大量に出回っていたのです。

なんだかすごく現実的な話ですが、なるほどなぁと思ってしまいます。

3-2.家康は村正を嫌っていなかった!?

実は徳川家康自身は村正を複数所持していました。
徳川家伝来の刀の中に村正もあるのです。

名古屋にある徳川家に伝わるものを展示した徳川美術館でも村正を見ることが出来ます。
徳川美術館には、珍しい皆焼(ひたつら)の刃文を持つ村正が展示されています。

皆焼とは刃先だけでなく刀身全体に表裏非対称の複雑な刃文があることです。
村正の刃文は湾刃(のたれば)や互の目(ぐのめ)のように波打つ刃文を基調としているので、皆焼の村正は極めて珍しいのです。

実は家康は村正を嫌っていたのではなく、村正のコレクターだった説があります。
そのため徳川家伝来の刀の中に村正がたくさんあるのだと思われます。

では、村正を嫌っていないのになぜ所持禁止のお触れを出したのでしょう?
それは、村正遺棄を恐怖支配の象徴として命じたのだと考えられています。

村正をだしに徳川家の綱紀粛正を図ったのだと。
そして自分は村正を集めていた。

いずれの説にせよ、村正は妖刀ではなかったのです…。

いかがだったでしょうか?
今回の村正のように、妖刀や名刀の伝説や剣豪の伝説はたくさんありますが、どれも本当かどうかは怪しいものばかりです…。

しかし、村正にしても、妖刀ではなかったにせよ、妖刀伝説は世間に広まり幕末の志士達が討幕の象徴として実際に持っていたのですから、
歴史的に見ると大きな意味を持っていたことがわかります。

このような伝説話を調べてみるのも面白いです!

【参考文献】

週刊日本刀      ディアゴスティーニジャパン

戦国武将と日本刀   宮内露風

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