今回は、池波正太郎の小説や中村吉右衛門主演の時代劇で知られる「鬼平犯科帳」に出てくる、「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」について詳しく紹介いたします。火付け盗賊改は、その名の通り火付けや盗賊などの凶悪犯罪を取り締まる警察組織の一つですが、凶悪犯罪に対抗するべく武芸達者な家系から長官が選ばれ、過激な取り締まりを行いました。長官によっては怪しい人を片っ端から捕えて処刑し、町の人まで震え上がらせる恐ろしい存在だったのです。鬼平犯科帳の主人公・長谷川平蔵も実在の人物です。長谷川平蔵の功績についても紹介します。
目次
1-1. 火付盗賊改とは!?
1-2. 盗賊改の誕生以前
1-3. 盗賊改の誕生
2.盗賊を震え上がらせた長官達
2-1.「鬼勘解由」と恐れられた、中山勘解由
2-2.鬼平の父・長谷川平蔵宣雄
2-3.鬼平・長谷川平蔵宣以
3.火付盗賊改の解体
1.火付盗賊改
1.火付盗賊改とは!?
「火付盗賊改」は、江戸幕府に属する警察機関の一つです。
江戸時代における警察署といえば奉行所ですね!江戸の町の治安は二つの奉行所、北町奉行所と南町奉行所が見ていましたが、奉行所では、現代の警察官である「与力(よりき)」とその部下である「同心(どうしん)」は「文官」であり、犯人を逮捕するのもそうですが奉行所の事務仕事や裁判を主な仕事としていました。江戸時代はどの時代でも町や村に盗賊や放火魔がはびこり人々を苦しめていましたが、奉行所だけではとても手に負えなかったのです。そこで幕府が組織した特別部隊が「盗賊改」です。やがて「火付改」「博奕改(ばくちあらため)」も設立され、八代将軍吉宗の時代に一つになり「火付盗賊改(以下、火盗改)」となりました。
この火盗改、とっても恐ろしい組織で、盗賊のみならず町の人々を震え上がらせたのです!
火賊改は「先手組(さきてぐみ)」の中から一組が任命され、任期を終えるまで務めます。先手組とは30組ある江戸の治安を預かる組織ですが、警察というより軍隊に近く、奉行所と違って「武官」の人達。奉行所の人達には犯人を斬り捨てることは許されていなかったのに対して先手組の人達には斬り捨てることが許されていました。それに加え火盗改は幕府の管轄ではない地方でも自由に動けましたし、過酷な拷問も行いました。組織が出来て間もない頃は怪しい者を片っ端から捕えていたので誤認逮捕、えん罪で処刑されてしまった人がたくさんいました。
火盗改を務めるにはお金がかかる上に独立した専任職ではなくあくまで先手組が一定期間だけ務める「加役(かやく)」だったので、任期は平均1~2年で交代になりました。なので火盗改の長官は200年の間に200人も交代しています。町奉行は260年間に84人なのでその多さがわかります。この200人がみんな優秀だったわけではなく、人によって勤めぶりは全然違いました。しかし時代が進むにつれ火盗改は、長谷川平蔵のような、武辺一辺倒だけでなく処務、政務もこなせる人が任命されるようになっていき、エリート武士がお奉行になる出世コースになっていきます。
1-2.盗賊改の誕生以前
戦国時代が終わりをつげ、徳川家康が関東に入り徳川幕府が始まりますが、幕府創業の時には政治組織の改編・廃止があわただしく、関東全域の治安・警察の形はなかなか定まりませんでした。江戸町奉行も最初は職務が明確に分担されておらず、他の職との兼任でした。三代将軍家光の時にようやく町奉行が2名となり、2つ奉行所が設けられ配属された与力・同心が江戸の町を見ていましたが、それでも関東にはびこる盗賊に対してなかなか有効な対策が打てません。
1657年に幕府が村々に出したお触れは、代官や領主ではなく、農民達に直接、怪しい者の捕縛や監視、届け出を指示したもので、これには一定の効果があったようでした。農民達の身の安全やご褒美は約束されていたようですが、農民に村の治安を任せるとは、苦肉の策ですね…。
しかし江戸では、同じ年に江戸時代最大の火事である「明暦の大火」が起きてしまいます。この火事は本郷から神田、日本橋全体を焼き付くし、一旦鎮火したものの、翌朝に再び出火し、飯田橋、九段、そして江戸城の大半を焼き、焼死者は10万7千人に達しました。この時、幕府の重要施設を消火する大名火消はいましたが、町火消はまだありませんでした。
江戸の町では、大火の最中も後にも火災現場での盗みが横行し、さらに放火をする者まで現れました。この時幕府は、譜代大名5人と町奉行、そして先手組を総動員させて町の警備に配置しました。そして不審な者を捕らえ、抵抗する者は斬り捨てました。そしてこの8年後に「盗賊改」が設立されるのです。
1-3.盗賊改の誕生
明暦の大火は、江戸の町が火事と、その中にどさくさにまぎれて現れた盗賊達に対してまったくなす術がないことを世間に知らしめました。幕府は火事に対しては、大火の翌年に旗本4人に火消役を命じ「常火消(じょうびけし)」を設けました。町火消が出来るのはさらに60年後になります。そして盗賊や放火魔のような凶悪犯罪に対して、町奉行所だけでは手に負えないことが明らかとなり、1665年に「盗賊改」が新設されました。盗賊改は、凶悪犯罪に対抗するために犯人の斬り捨てまで許されている特別部隊です。そのため命じられたのは皆、戦国時代に合戦場で大活躍した武功の家に育ったエリート達でした。彼らは血の気の多い猛者達で、設立時の盗賊改は特に、奉行所のように上の指図を受けなければならないような制限が少なく、関東の農村の盗賊を、生かして捕えるのではなく、見つけ次第斬り捨てていったのです。
2.盗賊を震え上がらせた長官達
2-1.「鬼勘解由」と恐れられた、中山勘解由
盗賊改設立から18年後、この頃江戸では、押し込み強盗の前後に放火をする凶悪犯罪が頻繁に起きており、町奉行所と盗賊改をもってしても追いつけない状況で、放火を専門に取り締まる「火付改」が設けられます。最初の火付改には中山勘解由(かげゆ)が命じられました。この勘解由が火盗改を語る上では欠かせない人物であり、江戸中を震え上がらせる恐ろしい男なのです。
この時の警察機関は、南北の奉行所と、盗賊改と火付賊の4つで、本来ならお互いに連携し合って江戸の治安を管理すべきところ、勘解由は独りで突出して取り締まりを行いました。勘解由は町を出ると、怪しい者と見るやすぐに捕えて誤認逮捕が激しく、さらに厳しい拷問にかけてしまい、やってない人もやったと言うほど責め続け、処刑してしまったのです。人々は勘解由を「鬼勘解由」と呼んで恐れ、奉行達も勘解由に対しては縄張り争いをせず、異議を唱えませんでした。しかし勘解由は、大きな功績も残します。
江戸時代初期の頃に京都で流行り始めた「かぶき者」という無法集団がいました。かぶき者は、総髪や長髪でビロードの襟のついた派手な着物を着て長い太刀を持った異様な風体で、町人に喧嘩を吹っかけて金を脅し取り、女性に乱暴を働いていました。かぶき者は武家や町人にも広がり、「旗本奴(はたもとやっこ)※旗本の青年武士のかぶき者」「町奴」が出現し一向に衰えません。勘解由はかぶき者の取り締まりを命ぜられると、リーダー格を一気に捕えて首を落とし、家康の時代から100年近く衰えなかったかぶき者を一層したのです。勘解由のやり方は、批判も多いが、見凝らしによって犯罪を抑止していたと言えます。この功績から勘解由は、旗本として最高の役職である大目付へと出世し、ここから、先手頭達が命じられる加役が、大きな出世が出来るポストだと認識されるようになりました。
その後も、勘解由のような過激なやり方をする火付盗賊改は度々いました。中でも山川安左衛門などは、捕えた者の裁判もお座なりでひたすら火あぶりにし、将軍に気に入られようとしました。町では、山川と言えば子供はたちまち泣くのをやめ、山川白酒というお酒を売っていた商人も山川の苗字を恐れ看板から字を削ったと言われています。まるでハリーポッターに出てくるヴォルデモート卿ですね…。
2-2.鬼平の父・長谷川平蔵宣雄
1716年、8代将軍吉宗の時代に「盗賊改」「火付改」「博奕改」は1つに統合され「火付盗賊改」が誕生します。その後1771年、「目黒行人坂の大火」が起きます。この火事は「明暦の大火」以来の大火事で、町火消が懸命に家屋を壊し続けましたが、江戸の町の20㎞にわたって焼きました。この火事は、江戸の三大大火の中で唯一犯人が捕まり、放火であるとはっきりしている火事です。
この時の火盗改は長谷川平蔵宣雄(のぶお)。鬼平の父です。火付けの犯人はすぐ捕まりました。今までなら取り調べもおざなりにすぐに火あぶりになるところですが、宣雄は違っていました。犯人の自白させると、出火元の大円寺へ連れていき、どこで付け火をしたかなどの現場検証をしたのです。宣雄は犯人の自供だけで火あぶりにすることをためらい、寺の住職にも話を聞こうとし、老中にも判断を願い出ました。結果犯人は火あぶりになりましたが、宣雄はひたすら真実を追っていました。これは今までの火盗改には見られなかったことでした。
後に火盗改として大活躍することになる鬼平も、若かりし頃、父の仕事ぶりを近くで見続けていたのでしょう。
2-3.鬼平・長谷川平蔵宣以
鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)は1787年に火盗改に就きました。鬼平というあだ名は、「鬼平犯科帳」の作者・池波正太郎の創作なので実際はそう呼ばれていません。しかし、鬼平犯科帳で平蔵は青年の頃はワル仲間とつるんで酒や遊興にお金を費やしていた設定ですが、これは実際そうであったようです。家柄が良いので出世コースに入り、火盗改に就くと、めざましい活躍をしていきます。
平蔵は火盗改の中で最長の9年間に渡って長官を務め、その間数多くの火付・盗賊・博奕を捕えています。平蔵は捕物上手であり、裁判上手でもありました。火盗改は、自分の範囲を超える裁判の案件は「御仕置伺い」を老中に提出します。そして三人の奉行で話し合って判決を決め、老中も異議がなければ決まります。平蔵は火盗改の中でもこの御仕置伺いの数が圧倒的に多く、たくさんの判例(裁判の記録)を作りました。それは後代にとって重要な参考になったわけです。
もう一つ、平蔵の功績として挙げられるのが、職業訓練所の創設です。この頃江戸では無宿人(いわゆるホームレス)があふれて社会問題となっていました。平蔵は老中・松平定信に「人足寄場(にんそくよせば)」の設立を提言し、実行されました。無宿人は人足寄場に3年間収容されて大工や鍛冶屋といった技術を身に付け、その間の売上を貯金して、出所時に職に就けるようにしました。
火盗改はただでさえお金がかさむのに、平蔵は人足寄場でも、幕府からの運営費が足りずに出費をしていました。それでもなぜ9年間も務めていたかといえば、平蔵が財テクにも優れていたからです。借金をして銭貨を買い上げ、銭相場が高騰するとすぐに売り払って利益を得ていました。
しかし、平蔵がここまで優れた火盗改であったことで、幕府は平蔵をなかなか転役・昇進させませんでした。平蔵は老中・田沼意次に気に入られていたので、その次の老中・松平定信には嫌われていたという記録が残っています。そのうちに平蔵は急な病に倒れ、51歳で亡くなりました。松平定信が隠密を使って書かせたプライベートな記録書の「よしの冊子」には当初、平蔵のことをボロクソに書いていたのが、次第に薄れ、逆に同情する内容も書かれています。
3.火付盗賊改の解体
1853年に浦賀沖にペリー率いる黒船が開国を求めて現れ、大砲をとどろかせてデモをして去っていくと、幕府や人々は慌てふためきました。幕府は黒船来航により急速に乱れた治安を収めるため、政治・警察組織の立て直しをし、火付盗賊改の増強を決め、初めて火付盗賊改を先手組の加役ではなく独立した専任の役職としました。しかしそれでも多発する騒ぎや犯罪に対応が追い付きませんでした。
幕府が欧米との不平等条約を結んで開国・通商を認めると、各地で諸藩の志士が外国を追い払う「尊王攘夷運動」を激化させます。幕府は対立した長州藩との戦争の後、軍事力の再編成を行い、先手組や書院番といった役を幕府陸軍の歩兵隊に役替えさせ、この時に火付盗賊改も廃止になりました。幕府の武士達は皆刀を外して鉄砲を身に付けたのです。そして幕末の戦争はますます激しさを増していくのです。
いかがだったでしょうか。江戸時代は、絶えることのない盗賊と幕府との長い闘いの歴史でもありました。最初は犯罪者だけでなく町の人々まで震え上がらせていた火付盗賊改も、時代が進んでルールが出来てくると、旗本のエリートが務める出世コースとして認知されるようになり、文武両道を備えた人が求められるようになりました。しかしそれでも、犯罪者の少ない地域ばかり見廻って点数稼ぎをした人、行き過ぎた取り調べで逆に自分の身が危うくなった人などもいたそうです。そこへくると長谷川平蔵は時代劇の主人公になるだけあって立派な人だったのですね。しかし立派すぎて出世出来ず火付盗賊改を押し付けられていたとは…。
【参考文献】
「火付盗賊改」の正体 著書:丹野 顯