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幕末に絵日記をつけていた武士がいた!!

歴史コラム

書店に行くと必ずチェックするのが歴史コーナーです。近年の刀剣ブームもあって刀剣や歴史に関する本やマガジンが次々出ている気がします。

何かコラムに出来そうな面白そうな本はないかなと探すのですが、
見つけてしまいました。「武士の絵日記」。

タイトルだけでもう心惹かれます。絵日記をつけていた武士がいたのか!?

目次

1.内容と作者
1-1.「武士の絵日記」の内容
1-2.作者・尾崎石城
2.こんな感じだった!下級武士の日々。
2-1.友達が多い!
2-2.やたら寺に行く!
2-3.とにかく何かと呑んでばっかり!
3.石城のその後
4.番外編・石城達下級武士の刀の置き場所が適当!?

1.内容と作者

1-1.「武士の絵日記」の内容

大岡敏昭著の「武士の絵日記」の元になっているのは幕末に書かれた「石城日記 全七巻」です。
この日記は、江戸から北に15里(60㌔)ほど離れた武蔵野にあった忍(おし)藩10万石の小さな城下町(現在の埼玉県行田市)にいた尾崎石城(おざきせきじょう)という下級武士が書いた日記です。

書かれた期間は文久元年(1861)から文久二年までの178日間。

この日記が大変貴重なもので、江戸時代に書かれた日記の多くは社会的現象や事件について書かれていて、普段の暮らしのことについては触れられません。
暮らしのことを書いた日記でも、出来事の簡単な記述に終わります。
しかし尾崎石城は画才や文才があり日々の暮らしを挿絵とともに丹念に書き、当時の石城の暮らしぶりが分かる内容になっているのです。

これが面白い!とにかく呑んでばっかり!そして武士に限らず、町人やお坊さんなど、人とのつながりが多いこと多いこと。
お金のない下級武士の石城でも、彼を取り巻く人達の手を借りながら楽しそうに日々を過ごしているのです。
私たちが描いている武士のイメージとは大分違うかもしれません。

1-2.作者・尾崎石城

「石城日記」の作者尾崎石城は、庄内藩士浅井勝右衛(かつえ)の次男として生まれるも、その後忍藩士尾崎家の養子となりました。

当初御馬廻役100石の中級武士であったのが、安政四年(1857)の29歳の時に上書(藩の重役に自分の意見を書面で申し上げる)をして藩政を論じ、蟄居(ちっきょ、外出禁止)を申し渡された後、10人扶持の下級武士に身分を下げられてしまいました。

単純に計算すると、年収378万円から113万円に減ったことになります。三分の一以下ですね…。

上書で何を論じたのはわかりませんが、絵日記の中に水戸浪士に共鳴する文章があることから、尊王攘夷の内容だったのではないかと作者は考えています。
しかし忍藩は水戸と対立する藩であったことから抑圧されてしまったようです。

こんなに給料を下げられてしまった石城ですが、石城は画才や文才があったことから多くの随筆と詩、また軸物、屏風絵、襖絵、行灯の絵なども描いており、友人知人から描いてくれと注文を多くもらっていました。
他にも子供らに読み書きを教えたりして生計を立てていました。

石城は独り身で、同じく下級武士の妹夫婦の家に同居していました。
養子に入った尾崎家からは追い出されてしまったようです。
このような不遇に見舞われたことに無念さを感じている石城ですが、日記では日々を数多い友人、家族、知人達とおおらかに生きていたことが描かれており、石城の人柄がにじみ出ています。

2.こんな感じだった!下級武士の日々。

2-1.友達が多い!

日記を読んでいくとまず驚くのが石城の幅広い人付き合いです。
毎日毎日誰かしらと会います。
前提として、石城は給料を下げられてからお城勤めをしていないので毎日時間があります。
しかしお城勤めをしている下級武士達も、登城は一週間に一、二度なので家にいることが多いのです。

石城の家には頻繁に人が訪ねてきます。
それは武士、町人、寺の和尚と、身分の違いに限りません。
そして中級武士の友達だっています。
そして家の茶の間や座敷に集まり、食事をしたり酒を呑んだりします。大体みんな手土産などを持ってくるので、それを肴に呑んでいる印象です。また仲間で寺や料亭にもよく繰り出します。

寺は人々が集まる寄り合いの場所でした。
給料が下げられて時には数百円単位困ったり、時には節句の祝い日に必要な袷の着物がないからと仮病を使って休もうとしたこともある石城ですが、日々周りの人達と助け合って生きています。

これは、石城に限らず下級武士の家には日常に頻繁に人が集まり、密接な交流をしていました。
そしてその集まりは家族ぐるみで、奥さん、子ども、ご隠居、さらには犬猫までが家族そろって参加していました。

2-2.やたら寺に行く!

暇な石城が毎日のように足を運ぶ場所が寺です。

お参りに行くのではなく、寺の和尚達と仲がいいので、足を運べばたちまち酒を呑むのです。
この城下町には大小合わせて十三の寺がありましたが、石城はその中の大蔵寺、 龍源寺 、清善寺、長徳寺四つの寺と親交が深かったのでした。

石城が顔を出すと寺には和尚を始め大抵顔見知りの誰かがいて、すぐに「呑もう」と声をかけられ、呑み始めます。
何しろ石城には時間はたっぷりあるので。

城下町にはどこでも宗派の異なる寺が多くありますが、武士や町人のすべてが寺檀関係を結びました。
そして寺には多くの武士や町人が男女共に何かと集まり、酒宴が開かれたり、さまざまな催し物も行われていました。
寺はいわば人々の心の拠り所のような場所だったようです。

石城はお酒を呑む他にも中国の故事逸話や歌舞伎の物語を語り合ったり、和尚の頼みで寺の留守番をしたり、催し物の手伝いをすることもありました。
時にはみんなで酔いにまかせて浄瑠璃の脚本を声を張り上げてうなることもありました。何とも楽しげな光景ですね。

人々と和尚のつながりは強く、長徳寺の篤雲和尚が急な病に臥せってしまった時は、皆で話し合って、身寄りのない篤雲和尚を龍源寺で引き取り、生活費を援助することに決めました。
石城はこの時、龍源寺の和尚と共に篤雲和尚を看病する決心をしています。
篤雲和尚はその後良くなり、龍源寺で引き取る必要もなくなったようです

2-3.とにかく何かと呑んでばっかり!

日記を読んでいると、本当によく酒を呑みます。
家、友人の家、寺、料亭、居酒屋と、様々なところで呑みます。
禄を下げられて貧乏な石城なのに料亭に行けるのは、石城が絵を描く依頼を度々受けて稼いでいたからでしょう。

毎日呑んでばっかりいる石城ですが、彼は真面目な人間です。
日々読書をして学び、高くて買えない本は借りてきてせっせと書き写し、絵を描き、和尚に寺の留守番を頼まれた時も彼は本を数冊持ち込んで読書をしています。
そもそも藩に自分を意見を言ってしまうのですからとても情熱のある真面目な男なのです。

しかしよく酒を呑む。

当時は酒を呑んで登城するのは許されていたようで、城勤めの友人の武士達も、これから出勤なのにもかかわらず呑んでいたようです。

ちなみにこの絵日記でしばしば石城を襲ったトラブルも描かれてますが、すべてお酒関係です。
ある時彼は行きつけの料亭で深酒してとても酔い、友人の肩に寄り掛かりながら帰っている途中、刀の鞘に付いている小柄(手裏剣のような小刀)が抜け落ちてしまい、足の小指に突き刺さってしまいました。
小柄が抜けるくらいフラフラだったわけですね。痛そう。

別の日、再び料亭で深酒して深夜詩吟を歌いながら歩いていた石城ですが、排水路に転げ落ち、びしょびしょ泥だらけになってしまいました。
辺りを気にしながら頬かむりをして顔を隠し井戸で少し洗い、急いで帰ったのでした。

酔っ払いに絡まれたこともあります。居酒屋で友人と呑んでいると、酔っぱらった近所の町人に無礼な言葉を投げかけられます。
たまりかねた石城は、「町人といえどもそこまでの言動は許されない。」と大声で諫めました。
彼らは途端にしゅんとなり、そして次の日の朝よれよれの姿で謝りに来ました。
何とも素直なやつなのでした。

3.石城のその後

給料を減らされながらも穏やかな日々を送っていた石城ですが、年越し前に突然自宅謹慎を命じられます。

理由は酒の呑み過ぎによる不行ということでした。
酒を呑んで登城するのが許されるこの時代に呑み過ぎで咎められるのは唐突な気がしますが、どうやら石城が酒の席で下級武士仲間達に幕政や藩政に関する意見を喋ったために、それが上司に漏れてしまったようです。

石城は憤慨しますが、この咎めが不当であり言いたいことが山ほどあるが、今は我慢して謹慎が解けるのを待つのみと自分に言い聞かせます。

落ち込む石城のもとに大勢の見舞い客がやってきます。
連日朝から夜にかけて、日記に登場してきた普段石城と親交のある人たちが次々やってきたのです。
世間的に考えれば、謹慎を受けている人の家に行くのははばかられるはずです。
それにも関わらず人々が見舞いに来るところに、つながりの強さと石城の人柄の良さを感じます。
友人の岡村からは近所に住んでいるのに手紙と数の子一皿が来ました。
手紙でないと伝わらない優しい言葉が書いてあるのでしょう。

石城は乱れる気持ちを抑えながら、雑煮を食べ見舞いの和尚らと酒宴をして新年を迎えました。この時雑煮のおもちは15切れも食べたと日記には書いてあります。

年明け八日に自宅謹慎は思いのほか早く解かれました。
その後石城の元に江戸の実母から手紙が届きました。
その手紙には、石城の自宅謹慎に心を痛め神仏にお祈りし続けていただけに安心すると共に、
これからは気をつけて勤務すること、お酒の呑み過ぎに気を付けること、そして早くお見合いをして身を固めてほしいという、
今も昔も変わらぬ母の息子に対する気持ちが書いてあるのでした。
さらには、石城の妹邦子の赤子おきぬの顔をなかなか見に行けないから似顔絵を描いて送ってほしいとも書いてありました。

その後の石城ですが、この日記が書かれた六年後には明治維新となりますが、石城は才能がやっと認められ藩校の教頭を任ぜられました。
その後宮城県にも招かれ大主典となりますが、明治七、八年に病没し、四十六、七歳の生涯を終えました。

4.番外編・石城達下級武士の刀の置き場所が適当!?

この日記を読んで一つ思ったことは、石城が武士の魂である刀にあんまり思い入れがなさそうだという点です。

まず、武士は人と対面して座る時、相手に敵意がない時には自分の右脇に刀を置いてさらには刃を内側にして抜きづらくするという作法があります(所説あり)が、

石城の絵日記では刀の置き場所が定まっていない!

家にいる時には刀は刀掛けに掛けてあるだろうから手元にないですが、
外出して寺や料亭、居酒屋に行く時、刀は自分の左脇に置いていたり、右脇に置いていたり、はたまた後ろに置いていたり、時にはみんなの刀をはしっこにごろごろ置いておいたり、またはどこに置いているのか持っていなかったり。

どうやら普段の生活ではあんまり作法にこだわったりしなかった印象です。
日記では石城は登城していないのでお城での場面は出てこないのですが、城内で上司と対面した時にはさすがに作法に気を付けることでしょう。

そして、日記で石城が武芸や刀について語っている文が全くない。

石城は画才や文才はありましたが、どうやら武芸にはあまり興味がなかったようです。
長徳寺の篤雲和尚に居合の稽古をつけてもらう場面はありますが、この時入門したようですので、前から稽古していたわけではなさそうです。

石城達下級武士が武芸に興味がないのは無理もない気もします。日記の時代背景は幕末で、尊王攘夷運動のことも書いてありますが、石城が生まれた頃は戦がないのが当たり前ですから、武士とはいっても外で刀を抜くことはまずありません。
剣の腕よりも勉学の方が重視されていたはずです。
武芸や刀に対する価値観も三百年続いた長い長い江戸時代の中で移り変わっていったはずなのです。

武芸に興味がない武士にとっては、刀は武士だから形として差しているというだけに過ぎません。
そこに侍魂のようなものとはまた違った人間臭さが感じられます。


いかがだったでしょうか。
僕自身この本と出会って、武士に対する印象がまた変わりました。
なんて人間臭くて心豊かなんだと。
私たちは武士に対して封建的で厳格なイメージを持ちがちですが、実際はどうやら違っていたようです。
石城も度重なる不当な咎めを受けますが、無念さもありながらも、本人は至っておおらかで、日々を淡々と、そして愉快で和やかな日々を送っていたのでした。
あと、貧乏だけど意外に美味しいものを食べる機会も結構ある!

【参考文献】

武士の絵日記      大岡敏昭

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