目次
1.武士の借金事情
1-1.武士は借金まみれ
1-2.大名は借金まみれ
2.お金の借り先
2-1.武士はどこからお金を借りたのか
2-2.大名はどこからお金を借りたのか
3.札差を襲った棄捐令
4.最後に
1.武士の借金事情
1-1.武士は借金まみれ
「下級武士はアルバイトをするほど貧乏だった!」でも書いていますが、江戸時代の武士達は時代が進むにつれて、家柄がいいということでもない限りはお金がありませんでした。武士の家禄は、「二百年前に先祖が合戦で手柄をたてた」というようなことで給料の額が決まっていたのです。
それは、責任のある役職についたとしても変わらず、「役高」という制度でいくらか役職手当がもらえてもわずかなものでした。
それでも武士は非常に支出が多く、お金がなくても一年の間にさまざまな儀礼や行事を行っており、その度に親戚や同僚との交際費が家計を圧迫していました。
さらに、もし藩士が江戸詰めを命じられてしまうと国許の家族と二重生活になってしまい、家計は悲惨なことになってしまいました。
これほどまでにお金がかかり、お金もないので、もちろん借金をしていたわけなのです。しかもこの借金、金利がべらぼうに高く年利18%が相場でした。
そのため利子を払うだけでお金が飛んでいき、首がまわらなくなっていたのです。
幕末の武士達の平均的な負債総額は、なんと年収の2倍でした。
1-2.大名は借金まみれ
借金まみれなのは武士達どころか、藩そのものも同じでした。
度重なる参勤交代や重役達の贅沢三昧、そもそも戦もないのに藩士の数は多く、やはり藩にとってもお金は出ていく一方でした。
それに加え、武士達が商売をすることは卑しい行為だと考えられており、経済にも疎く、17世紀後半に社会は貨幣経済に突入しましたが、それにも対応出来ずにいました。その後積極的な藩は、藩の特産物を独占販売し商売を始めました。
これらの理由から諸藩は借金をするわけですが、経済に疎いので商人に有利な条件で借金をし、その返済を遅らせるためにさらに商人に有利な条件になり多くの金利を抱えていきました。
借金を踏み倒す藩も多く、また藩によっては藩士の給料を借り上げる「借知」を行い、ひどい藩だと50%も取ったそうです。
2.お金の借り先
2-1.武士はどこからお金を借りたのか。
武士はどこからお金を借りたのかといえば、大きく分けて二つで、一つは町人、そしてもう一つは親戚や同僚です。特に親類同士の貸し借りは盛んに行われていました。
町人からしたら、武士にお金を貸すのは出来るだけ避けたいところでした。
なぜかといえば、担保が取りにくいからです。年貢米を担保にしたとしても、実際それを差し押さえるのは容易ではなく、武士の年貢米を町人が横から取ることは難しかったのです。さらにもし借金を踏み倒されても幕府や藩が差し押さえを強制執行してくれるわけではありません。幕府や藩はそういった裁判を持ち込まれないようにしていたのです。
町人は快く貸してくれないので、武士は武士同士の内部で貸し借りせざるを得なくなっていました。しかし親類でも利子は高く、18%の金利でした。
藩士はお金を借りると、誰から借りてもその金利は15%を超えるのが普通で、信用がなく担保を取りにくいことがその原因でした。
借金をした武士は、その高金利に家計を押しつぶされていたのです。
2-2.大名はどこからお金を借りたのか
大名や幕府の旗本、御家人はどこからお金を借りていたかといえば、「大名貸」「札差(ふださし)」などです。
「大名貸し」とは、両替商のような有力な町人達が大名に利息をつけてお金を融資することですが、踏み倒されることもかなりあったようで、具体的な返済計画も指南していったようです。
「札差」とは元々、武士の給料である米の受け取りと換金を請け負っていた商人達です。
武士の多くは、給料は米でもらっていましたが、米のままでは物を買えないので、自分達の食べる分だけ残して、残りを米問屋に売って現金に換えていました。しかし、米を現金に換えるには米問屋まで米を運ばなくてはなりません。
それを代わりに運んだのが「札差」でした。
米を運ぶことで手数料をもらい、さらには米問屋に売ることも代行し、そこでも手数料をもらいました。やがて札差は、金融業を行うようになり、大儲けしていたようです。その札差を悲劇が襲います。
3.札差を襲った棄捐令
お金がないのに支出の多い武士は、借金を重ねなければ生活が出来ないという借金地獄に陥っていました。
老中、松平定信は寛政の改革で、江戸の札差に棄捐令(きえんれい)を発令しました。
その内容は、6年前までの借金はすべて帳消し、5年以内の分は利子を3分の1に下げて永年賦とするというものでした。
この棄捐令により札差は大打撃を食らい、破産してしまう札差もいたようです。その結果札差は武士達にお金を貸さなくなり、最初は喜んでいても、やがて生活に困り始めた武士の中には、追剥や盗人をする者もいたそうです。
水野忠邦の天保の改革でも発令されましたが、この時は江戸の半数以上の札差が閉店してしまいました。
しかしそれでも、明治維新まで、武士が存続している間は札差も存続し続けていました。
この棄捐令は江戸だけでなく諸藩でも行われました。
4.最後に
今回は武士の借金事情を見てみました。
武士の給料は家柄で決まり役職手当も少ししかもらえないなんて厳しいですね…。その上武士としてのメンツを守るために様々な支出が重なります。家来も雇わなければなりません。借金は膨らむ一方でした。
中には家財を売り、利息についても貸し手と相談して返済計画を立て何とか返した武士もいましたが、武士の大半は数学に弱く、有力な町人達に利用されてしまったようです。
諸藩の中でも多く借金をしていたのは意外にもあの薩摩藩だったのですが、貸し手に250年ローンの無利子を約束させ、商売をしながら返済し続け、蓄えまで増やしました。しかし明治に入り廃藩置県で藩がなくなった結果、残りの借金は踏み倒しました。
【参考文献】
1、武士の家計簿 著者:磯田 道史