坂本龍馬の三大偉業と知られざる一面

今回は歴史上の人物の中で群を抜いて人気のある坂本龍馬の偉業をまとめると共に、あまり知られていない一面もご紹介します。龍馬は幕末の時代、現在の高知県、土佐藩の藩士として生まれ、となりの藩はもう別の国という考えの時代に、黒船来航をきっかけとし世界に目を向けた人で、日本の未来ために走り回り尽力した人物です。しかし実は日本人の心を忘れず、また日本刀が大好きな一面もあったのです。

目次

1.坂本龍馬の三大偉業
1-1.薩長同盟
1-2.船中八策
1-3.海援隊
2.坂本龍馬の知られざる一面
2-1. 龍馬は暗殺される以前にも一度襲われていた!
2-2. 龍馬は刀剣マニアだった!
2-3. 龍馬は剣豪だった!?

1.坂本龍馬の三大偉業

1-1.薩長同盟

薩長同盟とは、江戸時代後期の1866年3月7日に薩摩藩と長州藩により結ばれた政治的、軍事的同盟です。この同盟により長州征伐を宣言していた幕府に対し薩摩藩が密かに長州藩を支持し反幕府の態度を固めました。

幕府を存続させて、天皇の下で諸藩と協力させて外国の排除(攘夷)を目指す薩摩藩と会津藩は、幕府を滅ぼして攘夷を目指し朝廷での発言力を強めていた長州藩の御所警護の任を解き、京都から追放しました。(八月十八日の政変)さらに池田屋事件で新選組により同志を殺された長州藩は薩摩・会津藩に対し蛤御門の変を起こし敗北します。これにより薩摩と長州の仲の悪さは決定的なものになります。

外国の脅威に対し打開策を打ち出せない幕府に薩摩藩は不信感を募らせていました。幕府は蛤御門の変の報復に長州藩への攻撃を決めますが、すでにボロボロの長州藩は、三人の家老を処刑することで幕府に謝罪し戦争を回避します。この頃薩摩藩では幕府に対し長州藩同様の考えが高まります。しかし薩摩藩だけでは倒幕は難しい。

この状況に目をつけた坂本龍馬は、幕府の警戒下にあって武器を買えない長州藩の武器を薩摩藩名義で買って長州藩に流し、土壌によって取高に支障のある薩摩藩の兵糧米を長州藩が用意するというお互いの実利を提案し、龍馬の会社である亀山社中(かめやましゃちゅう)が助力と搬送を行いました。この龍馬の提案が薩摩と長州の溝を埋め、1866年に京都にて、お互いになかなか素直に同盟を切り出せない薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎に龍馬が仲介に入ることで両藩の和解と、長州藩の復権のために薩摩藩が尽力するという薩長同盟が成立しました。この同盟は後の倒幕に向けて計り知れない効果を生み出すことになります。

1-2.船中八策

龍馬がなぜ薩長同盟のために頑張ったかと言えば、幕府が政権を朝廷に返す、大政奉還を実施させるためだったと言われています。日米修好通商条約で開港した港は江戸を囲むように開港されており、欧米に狙われていると危機感を感じた龍馬は日本国内での戦争を早く終わらせたかったのです。1867年、龍馬は土佐藩参政の後藤象二郎らと藩船・夕顔に乗船し前土佐藩主山内容堂に大政奉還のことを進言するべく京都に向かっていました。その船の中で提示したのが新国家の構想が書かれた船中八策です。その後大政奉還は山内容堂から徳川慶喜へ提案され、薩長に追い詰められている今政権を朝廷に返して倒幕や混乱を防ぎ、その後で天皇の下で徳川主導の政治をすればと考えた徳川慶喜は大政奉還を実行したのでした。

船中八策の内容は、・大政奉還(慶喜を新政体の要の位置に据える。)・二院制と議会政治の実現・外国との適切な条約の締結・永遠不変の憲法の新設・海外との金銀交換率の統一 などでした。もちろんこの内容はすべて龍馬が考えたわけではありません。長い奔走の途中で龍馬は多くの知識人の私案や持論を吸収していったのです。大政奉還を説いていたのは龍馬と深く知縁を結んでいた幕臣の大久保一翁。議会政治を早くから唱えていたのはやはり龍馬と関わりのあった熊本藩の横井小楠。そして勝海舟の弟子であり、上下二院による議会政治や選挙による議員選出を唱えていた赤松小三郎とも親交があったはずだと言われています。

こうして実行された大政奉還でしたが、倒幕側はなんとしても慶喜を政治に関わらせるのを阻止しようとし、それを不服とした旧幕臣との戦争になってしまいました。これが戊辰戦争です。

1-3.海援隊

幕臣で軍艦奉行であった勝海舟の弟子であった坂本龍馬は、勝海舟の手足となって神戸海軍訓練所で活動していました。しかし勝海舟の失脚での訓練所の解散に伴い、練習生の多くの脱藩浪士達の居場所がなくなって経験がすべて無駄になることを避けたかった龍馬は、1865年に薩摩藩の庇護を受けながら、同志達とともに長崎の亀山に日本初の商社と言われている亀山社中を結成しました。亀山社中は訓練所で学んだ航海術を生かして軍事物質の運搬などで利益を挙げ、薩摩藩から給金をもらえるようになりました。薩長同盟締結のために薩摩藩名義で武器を買い、長州藩に横流ししたのも亀山社中の活躍でした。

この頃軍事強化を急いでいた土佐藩は、薩摩藩は長州藩と繋がり、航海術も持っている龍馬達亀山社中に注目し、龍馬の土佐藩脱の罪を許し、亀山社中を土佐藩外郭の新組織とすることに決め、ここに龍馬を隊長とする海援隊が誕生したのでした。亀山社中こと後の海援隊が画期的であった点は、それまで日本人が行っていた事業は自分で資金を用意して経営するという個人商店でしたが、海援隊は出資してもらって龍馬らが経営するという、株式会社の基本形を確立した組織であったことです。日本初の株式会社を経営することで龍馬が直面した困難は今まで前例がないことばかりであったに違いありませんが、それらに直面することで欧米と比べての日本社会の遅れを痛感し、龍馬は新しい日本のあるべき姿を見定めることが出来たのでしょう。

2.坂本龍馬の知られざる一面

2-1. 龍馬は暗殺される以前にも一度襲われていた!

龍馬が1867年11月に京の醤油商・近江屋で暗殺されたことは有名ですが、それ以前にも一度襲われており、その際に拳銃で捕り方の一人を絶命させたことで殺人犯となり、暗殺されるに至ったのでした。それが寺田屋事件です。

薩長同盟が成立した二日後の神戸にて1866年12月23日の夜のことです。護衛役の三吉慎蔵と投宿していた船宿・寺田屋に戻った龍馬でしたが、深夜に寺田屋は伏見奉行所の捕り方30名ほどに囲まれます。いち早く異変に気付いた龍馬の妻・お龍の知らせを受けた龍馬らは素早く着替え、お龍に各部屋の襖を外させました。そして龍馬は入ってきた捕り方に向けて所持していた拳銃を発砲します。5発の銃弾を発砲し、1発は捕り方1人の命を奪いました。龍馬は捕り方に拳銃を持っていた両手を斬り付けられ指三本を負傷しました。このうち左手の人差し指は筋を切断されて機能を失ってしまいました。

龍馬がなぜ襲われたのかについては、幕府が薩摩藩のために龍馬が何かを画策していると疑いを持ったためでした。幕府としては抵抗する薩摩藩のために動く人間を見過ごすことは出来ません。そして寺田屋事件で殺人犯となってしまった龍馬は、近江屋にて討たれてしまったのでした。龍馬を暗殺した人物は諸説ありますが、京都見廻組によるものだという説が最も有力とされています。龍馬は近江屋の二階で土佐藩の中岡慎太郎と居ましたが、訪問を装った刺客に「坂本さん、しばらく。」などと声をかけられるも直後に襲われて剣を抜く間もなく額を横に斬られ、「我既に脳を斬られたり、助命の望なし。」と言ったあと絶命したとされています。中岡慎太郎は瀕死の重傷を負い2日後に息を引き取りました。

2-2. 龍馬は刀剣マニアだった!

龍馬は、拳銃を持っていながらも日本刀をこよなく愛した人物でもあります。刀を鑑定したり収集する趣味を持っており、その知識は専門家並みでした。1853年に剣術修行のために江戸に出立する際に父・八平より渡された三ヵ条の訓戒書が現存していますが、その中の一つに「刀剣の諸道具を買い集めて浪費しないように」と書かれており、刀にお金を使うことを心配されていることからその没頭ぶりがわかります。現在でも龍馬が佩刀していたと伝わる刀が5振現存しています。その中でも龍馬が暗殺される時まで佩刀していた刀が、陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)です。吉行は江戸時代初期に土佐藩で作刀していた刀工で、その刀は土佐藩士達の憧れでした。龍馬は1866年12月に兄・権平に丁寧な手紙を送り、家宝の刀を身に付けて国家の難に臨みたいと吉行の拝領をお願いしました。その後龍馬のもとに無事吉行が届き、龍馬は「京都の鑑定家にも高く評価してもらい同志も欲しがるほどで、大変誇りに思っています。」と権平に手紙を送っています。龍馬の吉行は現在京都国立博物館に所蔵されているのですが、実は近年まで本物かどうかわかっていませんでした。刀身が反っていないことと吉行の特徴の刃文がなかったからです。しかし2015年に坂本家の子孫が書いた寄贈書が見つかり、火事にあったことで反りがなくなり研ぎ直したとのことが記されており、さらにうっすらと吉行の刃文が見つかったことで、本物の龍馬の吉行だとわかったのでした。

2-3. 龍馬は剣豪だった!?

小説や漫画、映画などでは剣豪として描かれることの多い坂本龍馬ですが、実際はどうだったのでしょうか。龍馬は14歳から小栗流の日根野弁治に入門しています。小栗流は剣術の他に柔術、居合、槍術、騎射、長刀、水泳、水馬などもある総合武術でした。そして龍馬はのちに、「小栗流和兵法事目録」「小栗流和兵法十二箇条二十四箇条」「小栗流和兵法三箇条」という目録を受け取っています。目録とは、その項目を伝授し終わった時にもらえるものです。その後龍馬は19歳の特に江戸に剣術修行に出て江戸の三大道場の一つ、千葉周作が創始した北辰一刀流の千葉定吉道場に入門します。ここで龍馬は剣術修行に明け暮れ、千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられました。さらに2015年に坂本家の子孫から高知県立坂本龍馬記念館に寄贈されたものの中に、北辰一刀流の「皆伝兵法」が見つかりました。皆伝とは、師範から奥義のすべてを伝授されたということであり、これにより龍馬が剣の達人であった可能性がさらに高まりました。寺田屋事件で脱出に成功していることや近江屋で刺客が来客を装ってまで龍馬を用心していたことは、龍馬が拳銃を持っていたにせよ、身のこなしが速かったことを示していますね。近江屋でも剣を抜いていれば暗殺されなかったと言われています。

いかがだったでしょうか。龍馬が刀剣マニアだったことや寺田屋事件で拳銃で捕り方を一人殺めていたことなどは知らなかった人も多いのではないでしょうか。また、持ち主とその愛刀の刀剣秘話も調べていて面白かったです。これからも歴史人物の秘話を取り上げていきたいと思います。

【参考文献】

歴史探訪   著書:ホビージャパン

週刊日本刀  著者:ディアゴスティーニ・ジャパン

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