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時代劇と史実での斬り合いの違い

殺陣の知識

テレビや映画の時代劇の殺陣では、剣の腕のたつ侍が、華麗な太刀さばきで敵をまたたく間に1人2人と倒していきます。
例えば、松平健扮する徳川吉宗将軍こと暴れん坊将軍は、1度の立ち回りで悪代官の家来を20人くらいは倒しているように見えますが、実際の斬り合いとは、どのようなものだったのでしょうか。

剣豪と呼ばれる人は本当にそんな鮮やかな戦い方が出来たのでしょうか。

目次

.戦での斬り合い

.宮本武蔵の伝説

.鍵屋の辻の決闘

.桜田門外の変

まとめ

 

1.戦での斬り合い

テレビ時代劇の戦のシーンでは刀で戦っているシーンが多く見られますが、実はテレビの戦のシーンと実際の戦い方は大きく違っていたようです。

江戸時代以前の戦乱の時代での戦いでは、刀はあまり有効な武器ではなかったのです。

甲冑を着ているので刀では太刀打ち出来ず、遠距離では弓、鉄砲。近距離ではリーチが長く突くことにも叩くことにも適している槍が使われていました。

甲冑は防御力が非常に高く、刃物には十分な耐久性がありますし、たとえ弓矢が刺さっても甲冑と生身の間にはすき間があって致命傷にはならないそうです。

近距離戦で槍が使えなくなった時に刀を抜いて戦いますが、斬るというよりは叩いたり、甲冑のすき間を狙って突いて戦っていました。

あとは取っ組み合いになり、相手を羽交い絞めにして刀でとどめを刺し、首をはねました。

戦での戦いぶりは、弓や鉄砲での撃ち合い、槍や刀での突き合い、叩き合い、取っ組み合いで、とても斬り合いと呼べるものではなかったようですね。

 

2.宮本武蔵の伝説

剣豪の伝説はたくさんありますが、それ自体がフィクションであったり、脚色を加えられているものが多く、本当にそうであったのかはわからないものがほとんどです。

江戸初期の有名な剣豪といえば、言わずと知れた二天一流の創始者で二刀流の遣い手であったとされる宮本武蔵ですが、その記録は、書いてあることがそれぞれ異なり、フィクションや脚色が多いそうです。

宮本武蔵と言えば、生涯で60余りの試合をし、一度も負けたことのないという天才剣士で、小説、映画、テレビ、漫画でも有名です。

有名な試合は、京都の剣術一門吉岡家との試合や、巌流島での巌流佐々木小次郎との試合ですね。

吉岡家との決闘では、当主の清十郎、その弟の伝七郎を倒した後、一乗寺下がり松で吉岡家数百人と戦い勝利したそうです。しかしこれは創作の可能性が高いとされています。1人で数百人と戦うのはちょっと考えにくいですね。

巌流佐々木小次郎との試合は、三尺もの長さの刀を使う小次郎をさらに長い木刀で打ち倒した有名な試合ですが、これも記録によって決闘時の武蔵、小次郎の年齢すら違っていたりするので、どんな決闘だったのか本当のことはわからないそうです。

宮本武蔵は策略家としても知られていて、わざと決闘に遅れて現れ相手を怒らせ冷静さを欠かせる作戦を使ったり、勝てる相手としか決闘をしなかったという説もあります。しかし、武蔵の他に歴史上に名を残している有名な剣豪とは生きている時代や全盛期の年齢が合わないという説もあります。同じ時代に柳生新陰流の柳生宗矩がいますが、徳川幕府の剣術指南役であった大名の柳生宗矩と、武蔵が決闘することは考えられないですね。

 

3.鍵屋の辻の決闘

江戸初期の剣豪として名高い人物の1人が、鍵屋の辻の決闘で名をあげた荒木又右衛門です。この決闘は「又右衛門の36人斬り」と言われ、映画やテレビでも有名です。

この決闘は、岡山藩の武士可合又五郎に弟を殺された渡辺数馬の仇討ちの決闘で、数馬の義理の兄で郡山藩剣術指南役の荒木又右衛門が助太刀として参加しました。

この決闘はどんな斬り合いだったのでしょう。又右衛門は本当に36人も斬ったのでしょうか。

念入りな歴史検証をして書かれた小説を読んでみると、又右衛門側は、数馬、又右衛門、又右衛門の門弟2人の4人。又五郎側は11人とされています。

又五郎側の遣い手は、元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、槍を得意とする桜井半兵衛。

決闘のシーンを読んでみると、

又五郎一行は午前8時ごろ、4人が待ち伏せる鍵屋の辻に姿を現した。

又五郎、甚左衛門、半兵衛は馬上にいて、槍もちや若党を率いている。

又右衛門たちは躍り出た。不意をくらった馬上の甚左衛門は、あわてて手綱を引き締めて身構えようとしたが、馬側へ駆け寄った又右衛門の一撃が右太股を深々と切り裂いた。反撃態勢をとる間もなく馬が驚いて竿立ちになった。又右衛門は馬の下をかいくぐって反対側に回るなり、相手の頭上に第二撃をくわえた。甚左衛門は刀の鯉口を切る間もなくあえなく絶命。

門弟2人は桜井半兵衛1人を目ざして斬りかかり、半兵衛は刀で2人に応戦しながらも、槍もちに「槍を!」と叫んだが、槍を渡そうとするのを妨害され、不得意な刀で応戦せざるを得なかった。そこへ又右衛門がかけつけてくるなり半兵衛の胴を薙ぎ払った。

半兵衛の小者が木刀で又右衛門に襲い掛かった。又右衛門が振り向きざま木刀を叩き落したとたん、刀が折れてしまった。又右衛門は素早く脇差を抜いた。相手は又右衛門の形相のすさまじさに悲鳴をあげて逃げ去った。

数馬と又五郎は、6時間あまり斬り合い、数馬が又五郎を討ち取ったとされています。

斬り合いの壮絶さ、必死さが伝わってきますが、こうして読んでみると、時代劇での決闘とは大きく異なり、36人バッタバッタと斬り倒していくのではなく、実際に又右衛門が斬ったのは2人とされています。相手を待ち伏せして奇襲をかけたり、槍が得意な半兵衛に槍を渡さないようにしたりと、勝つための作戦を駆使して戦っていますね。

又右衛門の刀が折れてしまっています。刀は作られた時代によっても折れやすさが異なるようですが、刀を打ち合ったり、人を斬ると、それだけ折れやすくなるようです。

 

4.桜田門外の変

江戸時代は戦のない天下泰平の時代が続いていましたが、幕末になると尊王攘夷運動などで血なまぐさい事件が各地で起きるようになります。

日本の開国近代化を断行した井伊直弼は、安政の大獄で反対派を弾圧しました。それらを受け水戸藩を脱藩した藩士たちに暗殺されるに至ります。

この日は季節外れの雪でした。早朝、彦根藩邸から江戸城に登城する井伊直弼の駕籠を含めた彦根藩の行列約60名を、18名の浪士たちが襲いました。

史実を忠実に再現した小説「桜田門外ノ変」は、生々しいほどに事件の様子を再現しています。

各所で浪士と徒士との間で鍔迫り合いがくりひろげられている。

剣術の稽古で重視される間合い、姿勢などすっかり忘れ、ただ刀を上下左右にふるうだけで、揉み合ってる者もいる。

刀の背で相手の頭をたたいている者もいれば、抱き合うようにして刃で顔を傷つけ合っている者もいる。

事件後の現場には、切断された多くの指が雪の上に散っていた。間隔をおかぬ鍔迫り合いのため、柄をにぎる手の指が斬り落とされたのである。同様の理由で、耳や鼻の一部も数多く落ちていた。

生々しく、壮絶な印象ですが、事件当時、現場には行列の見物人もたくさんいて、目撃証言がはっきりしているので、実際こうであったようです。

江戸時代は戦のない時代なので、武士達は刀を腰に帯びていても、実際に抜いて斬り合ったことのある者はほとんどいなかったはずです。

真剣を向け合って対峙することは、道場の稽古など忘れてしまうくらい恐ろしいことだということが伝わってきます。ましてやこの時代は今のような医療技術などありませんから、生き残ったとしても深手を負ってしまうと、助かる見込みはまずないと言っていいでしょう。縫合したとしても、傷口に菌が入って治らず、高熱も出て、そのまま死んでしまうケースが多かったようです。

刃を向け合うこと自体が、死を覚悟してのことだということを改めて認識させられます。

 

まとめ

剣豪の伝説はたくさんありますが、その後書かれた書物や小説で脚色されたものが多く、実際の斬り合いは時代劇の立ち回りのように1人で多人数と斬り合うなどのようにはいかなかったようです。真剣で斬り合うことはどんな剣豪にとっても恐ろしいものであったはずです。幕末に様々な戦いに参加した新選組の斎藤一は後年、「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです。」と言ったそうです。そんな真剣勝負を殺陣でも意識したら、観ている人も引き込まれるのではないでしょうか。

【参考文献】

1、荒木又右衛門―「鍵屋の辻の決闘」を演じた伊賀の剣豪  著者:黒部亨
2、桜田門外ノ変 著者:吉村 昭

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